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起源・養護学校史

2009年12月13日 (日)

別所彰善、コミパ20号「新の健康を目指した精常園を作った男(前編)」

宝塚市のコミュニティー情報誌「コミパ vol.20」が送られてきた。コミパの編集者が「別所彰善」をホームページ検索し、私に問い合わせがあり、写真・資料・先行研究を提供した。資料等をもとに記事を書いてくれました。

「セピア色の写真が語る」「新の健康を目指した精常園を作った男(前編)」

別所彰善とその医院=精常興生院の写真あり。これにより、精常院と別所について、何かしらの新たな情報提供につながることを期待できる。次号で生成学園小学校を取り上げてくれるとのこと。

2009年11月23日 (月)

最近の新聞切り抜き から 病弱教育史につながるもの

最近の新聞切り抜き(朝日新聞)
2009年
11月21日(土)
虚弱児と言われた私 98歳・私の証 あるがまゝ行く 日野原重明
11月15日(日)
臓器移植の普及を訴える元難病の双子 ひと イサベル、アナベル・ステンツェル
11月5日
自分のお尻 ふくように 排泄と尊厳8 人脈記 小山内美智子
10月26日(月)
スーダンで医療活動する元大使館医務官 ひと 川原尚行
10月21日(水)
子どものホスピスをつくった英国人シスター ひと フランシス・ドミニカ

2009年10月15日 (木)

「わんぱく らくだ君」臨海学校参加の記録、1936年

「わんぱく らくだ君」たけだ まこと、講談社、1984年
武田専は1923年生まれ、昭和11年夏、臨海学校に参加した。千葉県のこぢんまりした海水浴場、寺が宿舎。臨海学校は「生徒たちに泳ぎを教えるのが目的」(p227)とのことである。そこに虚弱児や衛生の言葉はない。

昭和初期の臨海学校の実態を知る貴重な記録である。

2009年8月 5日 (水)

籠山言恵医師の平壌時代

籠山言恵医師の平壌時代に関する記述がないだろうか・・・?

朝鮮医育史 復刻版〔佐藤剛蔵は京都帝大医学部卒業後平壌公立同仁医院長として渡韓、韓国近代医学史を自伝風に綴る〕 
*原本は昭和31年佐藤先生喜寿祝賀会刊 佐藤剛蔵著/有隣会山口支部長木村正二/昭和55発行/

2009年7月15日 (水)

雀のお宿に関する記述

八大家執筆「日本八景」内
北原白秋「木曽川」
雀のお宿の位置は笠松の対岸になる。
「君のところの林間学校の子供たちだね。幾人ぐらい来る」

2009年6月23日 (火)

長畑正道先生のご逝去を悼む

「特殊教育学研究」47巻1号が届いた。
追悼 長畑正道先生のご逝去を悼む の記事が驚きと悲しみをもたらした。
私と長畑先生との関わりは次の文献を読んだときから始まった。
1992年 長畑正道「わが国における心身小児医学のはじまり-別所彰善と精常園、生成学園尋常小学校、少年健康塾-」小児の精神と神経.30(1).
長畑先生は、少年時代に別所の精常園の夏季学校に参加しておられたのである。Y市の先生宅を2回訪問して、精常園のこと、別所のこと、精常園の機関誌のことなど教えていただいた。そして、別所に関する資料・文献を多数お貸しいただき、別所に関する小論をまとめることができた。
生成学園小学校と精常院別所彰善医師「育療」31号、2004年
また、長畑先生が一高時代に教えを受けた橋田邦彦氏について、少々の手紙のやりとりをさせていただいた。
小児精神医学の分野の開拓者である長畑先生は、病気(精神科領域)の子どもの医療と教育の歴史上重要な医師であり、教育者であられたと思います。
別所彰善と精常園、生成学園について資料収集が進み、生成学園に学んだ人と連絡がとれ、また元教師、孫の住所等が分かり、いずれ以前の小論をふくらませて、別所伝、あるいは精常園史をまとめたみたいと考えていた。そしてそれを長畑先生に見てもらいたいと思っていた。それは叶わぬことになったが、私は別所伝を書きたいと思う。それが私の長畑先生の追悼になると思う。

2009年5月10日 (日)

三島佑一、昭和の戦争と少年少女の日記

三島佑一、昭和の戦争と少年少女の日記、東方出版、1995
p5~34、六甲郊外学園の日記 昭和一三年
p35~70、集英国民学校の日記 昭和一六年
p38に集英寮=郊外寮の記載あり
・大阪市内が空気が悪く緑に恵まれないので、自然の中で児童の健康を図ろうとして、集英小学校が千里山に建てたものである。
・露天教室二六〇坪
p52
・毎日新聞社が浜寺に水練学校を開いて有名だった
p55
・集英寮、平成六年、吉兆の従業員寮としてそのまま
p107~156、仁川健民修練所と動員の日記 昭和一九年

2009年5月 6日 (水)

黒岩重吾「小学生浪人」六甲の郊外学園

黒岩重吾「小学生浪人」初出:「小説現代」 1974.6 6号
あらすじ
作者の自伝的作品。小学生の浪人という特殊な経験の中での鬱屈した思いや初めての映画、性の芽生えなど
作品より引用
五年生になった時、虚弱児童ばかり集めた、六甲の郊外学園に、一年間放り込まれた
黒岩重吾、大正13年/1924年2月25日~平成15年/2003年3月7日

2009年5月 4日 (月)

宮腰信次郎長男、宮腰千葉太に関する記述

白十字会林間学校設立者、宮腰信次郎の伝記を書くための資料収集の過程で、その長男宮腰千葉太に関する情報が集まってきた。
5月3日朝日新聞書評欄、「著者に会いたい」
・村上紀史郎、「バロン・サツマ」と呼ばれた男 薩摩治郎八とその時代、藤原書店
1929年パリ、日本館(留学生会館)建設との記述。
確認したところ、4カ所に宮腰千葉太の記載があった。
他に宮腰千葉太のついて記述がある本は
・前山隆、ドナ・マルガリータ・渡辺 移民・老人福祉の五十三年、御茶の水書房、1996
・長尾みのる、地球のうらで孤独になろう 風まかせ人間・旅すれば、番町書房、1973
・長尾みのる、自魂他才でグッドモーニング珈琲、冬樹社、1981

2009年4月29日 (水)

大正期、結核の小学生、家族の行動と心理

小林恒子「一枚の写真 きのふの空第Ⅰ部」東京布井出版株式会社、2001年
著者は明治42(1909)年7月生まれ。
大正7(1918)年2月20日から同8年3月31日まで休学した。病名は乾性肋膜炎。p121~147「休学」の章がある。
<症状>
・坂を途中で休まなければ上がれなくなった
・家に帰るとへとへと
・お尻の穴が見えるほど痩せた
・定期的に種々の体力検査を受けさせられた
・肺活量は最低
・走ると脳貧血で気分が悪くなるか失神
・肋間神経痛
・寝間着や布団の皺が刃物のように感じて痛い
・頬が火照る
<治療>
・盗汗の薬として生牡蠣の絞り汁
・清酒を入れた胸部の温湿布
・部屋に終日湯気を立てる
・散薬
・水薬の鉄剤
・祈祷師「倉田のお爺さん」呪文、私の周りを回って拝んだ
・アルコールを入れた熱い湯で全身を拭く
・天理王神の祈りを捧げて、祈りの言葉を唱えながら全身を両手で撫でさするようにして拝む
<転地>
・信州は母が反対、空気は申し分ないが、医者、衛生、滋養物などの点が不十分
・大井鮫州の摺鉢公園の上のお鯉さんの別荘へ

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