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2008年5月26日 (月)

虚弱児の学校と学級(国民学校令以前)

  虚弱児のための教育は、一九四一年の国民学校令の施行規則によって養護学級・養護学校として法的に位置づくが、それ以前に様々な教育活動が、様々な形態で実践されていた。
 東京においては、関東大震災からの復興過程で鉄筋コンクリートの小学校が建ち、屋上を教室にすることが可能となった。そこには、太陽の光と空気が十分に取り入れられる窓の大きな教室を作ることができた。五反田の小児科医籠山譓は、鎌倉市外深沢村の常盤山に校舎・寄宿舎・自宅を建設し、一九三四年常盤山林間学校を開設した。同校に入った子どもは地域の深沢小学校に通い、寄宿療養を行う医療・教育施設であった。静岡県熱海の内科医高塚賢三は、自分が経営する軽費結核療養所回春荘を改築して熱海外気学校を開設した。東京府・市より「校外教授」の規定を得て、同校に学んだ成績が、子どもの在籍する小学校に報告されて進級卒業ができるという、それまでにないシステムの学校として運営された。これは現在検討が始まった二重学籍に近い形態であった。
 大阪の別所彰善医師は、生活環境の悪い大阪を離れて阪急沿線、宝塚の東端の長尾山を購入・開墾し、住居・病院・学校を一体化した町作りを行った。そこに作った生成学園小学校(一九三〇年開校)は、開発した住宅地の子どもが通う他、虚弱児等が健康学塾という寮から通った。オープンエアースクールの原理による健康児童養成を目指す学校であった。当時神経衰弱児と呼んだ小児神経症の子どもの教育も行われていた。
  日本の各地で、制度的な裏付けがない状況で養護学級が開設されていた。発熱しやすい、食が細くて元気がないといった子どもが、学校へ行けない、通常の教育についていけないなど、学校へ入ったが十分な教育を受けられない状況があった。またその後は、満州事変から太平洋戦争にかけて、国力・兵力としての国民体位向上が社会的な問題となってくる。通常教育に適応できない虚弱児童の健康向上をはかる教育と、通常教育内の児童全般の健康増進が、強い身体作りにおいて共通の教育課題となっていくのである。

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