鎌倉と結核
鎌倉という地域は、結核と深いつながりがあった土地であった。それはどうしてであったろうか。
明治期日本の医学教育に大きな影響を与えた東京医学校(現東京大学医学部)の内科教師エルウィン・ベルツは、日記(「ベルツの日記」岩波文庫)に次のような記述をしている。
明治一三年一一月八日-独りで江島へ行く。(中略)なだらかな丘の背を越すと-数分で七里浜の海岸に出るが、ここは自分にとっては、日本で一番美しい地点である。
このベルツが鎌倉や湘南地方が結核の療養に適した土地であることを唱え、結核の療養所が数多く建っていった。また結核患者が家や部屋を鎌倉に借りて療養にやって来るということもあったという。明治一九年長与専斉による海浜院、明治三二年中村春次郎による恵風園、大正九年額田豊による額田保養院、昭和八年向山孝之による鎌倉山の林間病院、他多数の結核療養の病院があった。
さらに、昭和一〇年代の鎌倉には、常盤山林間学校の他二つの虚弱児の学校があった。先に紹介した麹町臨海学園、そして昭和一三年に設立された私立鎌倉学荘である。鎌倉学荘は、内科医額田豊が鎌倉の北部山之内に設立した全寮制の小学校である。結核にかかったり、あるいは先天的にかかりやすい蒲柳の質といった虚弱児を医師と特に密接な連絡を保って学業指導を行い、健康者に成長させようと設立されたものであった。
結核に有効な治療薬がない時代の結核治療は「大気、安静、栄養」と言われたという。その「大気」は空気がきれな所で静養するということであるが、その場所の自然環境と見た景色の美しさが大切で、それがいかにも身体によいというイメージを作り出す。
ベルツが見た七里ヶ浜からの風景は、太陽に輝く大きな海とその向こうに緑色に大きく見える江ノ島がそびえ、また富士山と伊豆半島が見えて気分がよいものである。気候は東京に比べ暖かく、現在テレビニュースによって東京や横浜で雪が降る映像を見るその時、鎌倉や私が住む茅ヶ崎では雪がないことも多い。また、同じ鎌倉市内でも、海側と内陸部では冬の外気の体感温度に違いを感じるほど、海に近い地域は暖かい。
風景がよく、温暖で、しかも東京から横須賀線で一時間と少々でやってこれる鎌倉は、東京周辺に生活する者にとって、結核の療養にも子供を預けるにもうってつけの場所であったのである。


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