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2008年5月

2008年5月31日 (土)

ベッドサイド教育

戦後における病気の子どもの教育の始まり

 第二次世界大戦後一〇年を経た一九三五年頃、全国に結核療養所が国立だけで二百数十カ所あった。そこには子どもも入院しており、教員の患者、また勉強を教える素養のある患者も入院していた。有効な治療方法がなかった結核も、その頃にはストレプトマイシンなどが実用化し、時間がかかるが治るようになってきた。子どもは勉強が遅れることを気にしだし、そこで軽快した大人によって自然発生的に教育が始まってくる。 骨や関節が結核に冒されるカリエスの専門病院、宮城県の国立玉浦療養所で、歩行が許された教員経験がある患者が、子どものベットまで出かけて枕元に置かれた教科書を使って教育が始まった。やがて学年末に進級、卒業の認定が課題となり、療養所所長が文部省、宮城県に交渉して、やがて地元小中学校の分校が病院内に設置され、後に県立の病弱養護学校となる。 千葉県の下志津療養所も同様にベッドサイド教育を始め、病児の教育が治療と子どもの将来にとって必要と判断した所長渡辺基治医師が -未完-

2008年5月29日 (木)

夏季林間学校

虚弱児童の夏季林間学校
 明治末期から大正期にかけて、日本人の死因が肺炎・気管支炎についで結核が第二位となっていた。当時結核には有効な薬や治療法がなく、結核は治らない恐ろしい病気と考えられていた。そこで結核の予防対策として身体虚児の養護が始まる。夏季に三~四週間環境のよい新鮮な空気の場所で、適当な運動と栄養食物の摂取、学習と楽しい活動を行う「集落」あるいは「コロニー」と呼ぶ取り組みが行われ始めた。イギリスやスイスで盛んに行われていた野外教育の影響を受けてのことであるという。その取り組を、日本では医療面からと教育面から取り上げた。
 日本赤十字社は一九一四年に京都支部が天橋立海岸で休暇集落を実施したのが最初で、宮城支部では昌浦田海岸で夏季児童保養所を実施した。日赤のこの取り組みは、一九三〇年には全国で三五カ所に及んだという。
 教育面からは、一九一二年に高松市四番町小学校が校医の指導の下に栗林公園で行った
のが最初といわれている。当時全国各地に「教育会」と呼ぶ、教員を中心とした研究会と互助会を兼ねた組織があり、そこが「緑陰学校」「臨海学校」等様々な形の健康教育施設を開催してた。大阪市教育会は、一九一七年に水泳練習会を実施、また寺を宿舎にして「林間学校」を実施した。
 これらの取り組みが、後に日赤千葉支部の「富浦海浜学校」や、大阪市の御津小学校の「浜寺林間学校」等郊外学園の開設につながっていくのである。

虚弱児の夏季林間学校の広がり
大正期に始まった夏季林間学校は、健康管理の下で虚弱児が良い環境の中で生活し、運動と学習を行うと、健康の向上に役立つことが、子どもの体重増加のデータをもとに実証した。日赤の夏季保養所は一九三〇年には三五カ所、一九三五年には四六カ所で実施されたという。
 虚弱児の保養所は、結核予防対策であった。当時結核による死亡率は地域差があり、石川県は当時日本で最も結核による死亡率が高い県であった。日本赤十字社石川支部が大正期から継続して保養所を開催していた。また石川県女子師範学校や金沢市も夏季林間保養所を実施するなど、多様な取り組みが行われてた。

2008年5月28日 (水)

淡路臨海保養所

公的な虚弱児の夏季林間学校
虚弱児の健康問題が、日本赤十字社、白十字会、地域の教育会、個人など民間において対策がなされてきた時代を経て、公的な立場からの対応が行われ始める。大阪市においては、保健部が一九三二年に淡路島東浦に淡路臨海保養所を開設した。大阪市は、大阪府の委託事業として結核相談所、保養所等を設立し、子どもの結核対策として常設で短期収容の淡路臨海保養所を作ったのである。これは市内の小学校が二名の児童を推薦し、自然に親しみながら学習し、その健康増進をはかった。一九四〇年に淡路郊外学園に転換して、公費で健康教育を実施した。

2008年5月26日 (月)

虚弱児の学校と学級(国民学校令以前)

  虚弱児のための教育は、一九四一年の国民学校令の施行規則によって養護学級・養護学校として法的に位置づくが、それ以前に様々な教育活動が、様々な形態で実践されていた。
 東京においては、関東大震災からの復興過程で鉄筋コンクリートの小学校が建ち、屋上を教室にすることが可能となった。そこには、太陽の光と空気が十分に取り入れられる窓の大きな教室を作ることができた。五反田の小児科医籠山譓は、鎌倉市外深沢村の常盤山に校舎・寄宿舎・自宅を建設し、一九三四年常盤山林間学校を開設した。同校に入った子どもは地域の深沢小学校に通い、寄宿療養を行う医療・教育施設であった。静岡県熱海の内科医高塚賢三は、自分が経営する軽費結核療養所回春荘を改築して熱海外気学校を開設した。東京府・市より「校外教授」の規定を得て、同校に学んだ成績が、子どもの在籍する小学校に報告されて進級卒業ができるという、それまでにないシステムの学校として運営された。これは現在検討が始まった二重学籍に近い形態であった。
 大阪の別所彰善医師は、生活環境の悪い大阪を離れて阪急沿線、宝塚の東端の長尾山を購入・開墾し、住居・病院・学校を一体化した町作りを行った。そこに作った生成学園小学校(一九三〇年開校)は、開発した住宅地の子どもが通う他、虚弱児等が健康学塾という寮から通った。オープンエアースクールの原理による健康児童養成を目指す学校であった。当時神経衰弱児と呼んだ小児神経症の子どもの教育も行われていた。
  日本の各地で、制度的な裏付けがない状況で養護学級が開設されていた。発熱しやすい、食が細くて元気がないといった子どもが、学校へ行けない、通常の教育についていけないなど、学校へ入ったが十分な教育を受けられない状況があった。またその後は、満州事変から太平洋戦争にかけて、国力・兵力としての国民体位向上が社会的な問題となってくる。通常教育に適応できない虚弱児童の健康向上をはかる教育と、通常教育内の児童全般の健康増進が、強い身体作りにおいて共通の教育課題となっていくのである。

2008年5月25日 (日)

橋田邦彦と別所彰善

橋田氏について金森修氏が研究
橋田氏への「尊敬の念」をもって書かれている。橋田氏の業績を再認識しつつ、「初動的意図」が社会空間の中で変化していく事態から、個人的思想と社会的運命との相互関係を研究している。
「配慮」しながら、橋田氏のことを書いているように思える。

 別所氏の考えについて知るために、もっと資料を読んでいこうと思う。その際、橋田氏の思想と比較したり、共通点をさぐったりすることで、別所氏の思想が整理できるのではないか、と思う。当時の社会的な背景について理解することに努めながら読み進めていきたいと思う。

 橋田氏の「行としての科学」
学問に対する厳しさと「人」の働きについての思いが伝わってくる文章である。なかなか読みこなせない。「自然と人」の方は、一部を読んで中断。
橋田氏と別所氏の間に交流があり、橋田氏が精常園・生成学園を訪問していることが、「国民学校ニ関スル要綱」内、都市児童の為の郊外学園の奨励に関連があるのではないか、といったことを念頭において、資料にあたっていきたい。当時「郊外学園」と言う呼び名は京都・大坂・兵庫に見らる。東京周辺では「健康学園」や「養護学園」とう名が多かった。国民学校要綱に東京周辺に多かった「健康学園」ではなく、関西の「郊外学園」を採用したのは、関西の実情を知る人がいたのだと思える。

平生文相(昭和11~12年)も関西で学校を作った人物。関西との関係、橋田氏の教育行政上の仕事について、少しでも調べることができると良い。

2005年3月、改2008年5月

2008年5月21日 (水)

欧米との比較 「茅ヶ崎の小さな学校」より

http://members.jcom.home.ne.jp/kiri-n/ttghpam.htm
 白十字会林間学校は虚弱児童が将来結核になることを防ぐことを目的に寄宿制小学校として開校した。ではその当時の欧米ではどのような目的で病弱児や虚弱児をめぐる教育が行われていたであろうか。
 白十字会林間学校の設立の参考とされたフランスのウェルネー林間学校はグランシュ博士が一九〇六年に発表した「パリ市の小学児童の一五パーセントが初期の肺結核に侵されている」との調査研究をもとに設立されている。その発表を契機として、初期の肺結核を発見し、児童を田舎のサナトリウム兼小学校に入れて医師の厳重な監督の下に学業を継続して病状が進む前に救助しようという目的でウェルネー林間学校が設立されてる。
 ドイツでは一九〇四年の児童体格検査で、貧血や諸種の疾病の為に身体の著しく衰弱した児童が沢山出た。その身体の衰弱した児童に学習上の「劣等児」が多く、それが教育者と医者とが接近する契機となった。一九〇四年に設立されたシャロッテンブルク林間学校の設立の趣旨は、身体虚弱による教育の実質低下の救済にあった。対象は結核性児童のみに限らず非結核性児童も含んでいた。虚弱児の中に多かった学業不振児の学力向上を目的としていたのである。教育施設として学校統制の中に学童の養護・学校衛生施設が取り入れられたのである。
 イギリスでは一九〇七年にボストールウッド露天学校が設立されている。普通の小学校では授業効果を全うし得ない身体の虚弱な児童の体格の改善を図り、同時に教育の遅れがないように授業しようという目的で設立されている。
 アメリカは欧州と設立の経緯が異なり、結核予防の見地から公衆衛生事業として病院・結核予防団体が教育活動を準備する、という経緯を持つ。例えばシカゴ市で市の結核病院と市の教育局が共同で開始したアウトドアスクールは、最初の入学者三〇名中一七名は第一期の肺結核患者、二名が腺結核、一一名が疑似結核性患者であった。

フランス 一九〇六年頃 ウェルネー林間学校
     対象:初期結核児童
     目的:結核の病状が進む以前の救済
ドイツ  一九〇四年 シャルロッテンブルク林間学校  @確認
     対象:結核性の虚弱児、非結核性の虚弱児
     目的:身体虚弱による教育の実質低下の救済
イギリス 一九〇七年 ボストールウッド露天学校
     対象:授業効果を全うしない身体虚弱児童
     目的:体質の改善と教育の遅れの回復
アメリカ 一九〇八年 プロビデンス市アウトドアスクール  結核防止教会が設立
     対象:結核試験に反応したが純粋の結核ではない者
     一九〇八年  ニューヨーク市公立第一一四小学校付属アウトドアスクール 病院が設立
     対象:ベルビュ病院内の病気治療中の児童
     設立年不詳 シカゴ市アウトドアスクール  市結核院、市教育局が設立
     対象:結核患者
     目的:結核児の療養中の教育
日本   一九一七年 白十字会林間学校 結核予防団体白十字会が設立
     対象:身体虚弱児(現に結核の症状が出ていない者)
     目的:教育の傍ら身体の健康を恢復し結核の伝染を予防する

このように欧米の四国を見ると次のようなことが分かる。

 ・ドイツ、イギリスでは身体虚弱児の体質改善と共に学業成績の回復を目的としている。
  ・フランス、アメリカでは結核の予防を目的としており、フランスでは初期結核児を、アメリカで  は結核児を対象としてる。
 ・フランス、ドイツ、イギリスでは公教育行政の中で身体の養護と学校衛生が取り入れられている  のに対し、アメリカでは医療サイドが公衆衛生事業として教育施設を計画している。

 これらと白十字会林間学校とを比較するとき、対象としている「虚弱児童」の意味するところを考えてみる必要がある。先に示した入学児童の既往症の「腺病質」「肋膜炎」、これらはいづれも結核の初期症状をさすものである。当時結核患者がいる家と噂されると、その家の前は鼻を押さえて通ったと言われるほど感染が恐れられていた。そんな時代には結核という言葉を使うことを避ける風潮があった。現に結核の症状が出ている患者も「胸が悪い」とか「肺浸潤」と言い、「結核」という直接的な表現は使わないという風潮があった。白十字会林間学校入学の際には東京の白十字会診療所で身体検査を行い、感染の恐れがある開放性結核患者は入学させていなかったが、開放性でない結核患者は入学させていた。そう言った意味においては、虚弱児童は初期結核児を含んで意味していたと言える。よって白十字会林間学校はその設立のきっかけとなったフランスのウェルネー林間学校と対象児童と目的が共通しており、運営の主体は結核予防団体でありアメリカと共通する。日本で公教育の中で虚弱児のための学校が設立されるのは東京府立久留米学園の一九三六(昭和一一)年である。

2008年5月19日 (月)

フランスの教育情報が白十字会林間学校開設につながる

フランスの林間学校を参考に
  明治末から大正初期は欧米での虚弱児の野外教育がさかんに紹介された時期であり、白十字会もそれら虚弱児教育についての情報を得ていた。林間学校顧問の石原喜久太郎は一九一四(大正三)年にヨーロパに出張して学校衛生事情や特殊教育を視察している。そして医務嘱託の三田谷啓は一九一四(大正三)年にドイツ留学から帰国している。三田谷はドイツでゲッチンゲン大学、ミュヘン大学において治療教育学や心理学を学び、各地の施設や治療教育院を視察している。林間学校の設立にあたってこの二人の助言に「負うところが多かった」という。そして白十字会が林間学校の設立に向かって具体的に動きだしたきっかけは、白十字会理事長宮腰信次郎がフランスのウェルネー林間学校を『白十字』誌上に紹介したことにあった。 
 大正五年三月宮腰は、帝大仏法科学生の長男千葉太からフランスの雑誌「レクチュール・プール・ツス」(Lecture Pour Tous)の中のウェルネー林間学校の記事を知らされた。ウェルネー林間学校はフランスのリオン市衛生局長ポール・ウィーニュ博士が創設した学校で、伝染性でない初期結核児の寄宿制学校である。会員の多くが医師である白十字会の中にあって医師でない宮腰は、自分が力を注ぐことができる理想的な結核予防は寄宿制の林間学校をつくることであることをその記事によって思いたったという。宮腰は千葉太にウェルネー林間学校の記事を翻訳させて、機関誌『白十字』五七号(大正五年四月)に「林間学校制度に就いて」と題して発表した。また同号に宮腰は東京市養育院安房分院の参観記を載せた。これらの記事がきっかけとなり、同年四月の評議員会において林間学校の設立が決議され、宮腰信次郎・林止・西鎮の三氏が建設委員に選ばれた。
  上で述べた宮腰とウェルネー林間学校の記事との出会いは偶然とも言えるものであったが、林間学校の設立に対する思い入れは強いものであった。「此事業は兼々私が興味を有つ教育と、復讐的義憤を漏らしたいとおもふ結核退治とを、併せて一となすものなので、私は力瘤を入れて、其創立を発起した」と当時の心境を宮腰は述懐している。

2008年5月18日 (日)

沼津戦時疎開学園

Y様
このたびは「沼津戦時疎開学園要覧」をご恵贈くださり、ありがとうございます。
読んでいくつかの発見がありました。
沿革により、赤坂区の臨海学園と都の養護学園が、同じ場所で併置で運営された仕組みが分かりました。7・8月が赤坂区の臨海学園で、他の10ヶ月が都の養護学園だったのですね。以前から疑問の思っていたことが分かりました。
疎開学園は、都立だけれど赤坂区の小学校を対象としてたこと。このことに、学童疎開研究者、教育制度研究者は注目するのではないかと思います。都と区の役割分担、制度的な線引き・協力など、新たな疑問が生まれます。
沼津第三校へ行って、理科と工作を沼津の先生に教わっていること。協力関係があったのですね。(資料によると沼津に公立の千本松原林間学校があったとのこと。当時その学校に行って交流などありませんでしたか?そういった林間学校のこと、何か覚えがありませんか?)
教育だけはなく、子どもの生活を支えていこうとしている点、学園を家庭的に運営しようという意図が読みとれます。

この要覧に出会ってからの、同窓生のネットワークによる復刊が早いこと、発見の驚きと喜びが伝わってきます。画集も添えられ、当時の教育について研究する者として、単に資料として文字を追うだけではなく、資料をめぐる当事者の心情もくみ取りつつ読むことができました。
ありがとうございました。

昨年お会いした時に、同窓会会報平成15年1月号を頂きました。もしバックナンバーがありましたら、ご恵贈ください。お願いします。
S様、K様にもよろしお伝えください。

2004.2.5

神田区武蔵健児学園碑

神田区武蔵健児学園碑

東京市長陸軍大将従三位勲一等功五級岸本綾夫題額

維時昭和十八年大東亜ノ戦正ニ酣ナルノ秋茲ニ戦力増強ノ基礎ヲ固
クスルハ邦家第一ノ要務タリ一億ノ健民強兵能ク其ノ体位ヲ優良ナ
ラシメ以テ国力ノ源泉ヲ深カラシムルハ真ニ帝国焦眉ノ急務タリ不
肖曩ニ之ヲ神田区長ニ承ケ昨十七年十月適海軍志願兵採用ノ試験ア
ルヤ之ヲ体格検査ノ成績ニ徴シ挙国青少年層ノ体力増強ヲ急トスル
ノ念転切ナリ願フニ本区ハ巷路ノ交叉輻輳共ニ甚シク児童ノ遊戯運
動ニハ遺憾多シ再来力ヲ区内小国民ノ体育ニ効シ特ニ虚弱児ヲ収容
養護スルノ施設ヲ急務トナス偶区ノ有志三谷□□石川武美上野兵松
江草重忠ノ諸賢悉此ニ着目シテ巨額ノ資金ヲ提供セラレ区内専門ノ
医家悉胥議シテ児童養護対策委員会ヲ置キ地ヲ山間ニ択ミ此ヲ施設
ヲナスノ議ヲ決セリ区内杏林ノ有志ニ花岡和雄君アリ特ニ賛意ヲ傾
ケ多年ノ経営ニ係リシ私立花岡学院ノ全財産ヲ挙ケテ之ヲ区ニ寄贈
セラル区乃チ本事業ノ整備ヲ愈急トシ学事委員会厚生事業委員会ニ
諮リテ本年三月区会ノ議決ニ基キ区営養護ノ施設トシテ武蔵健児学
園ヲ創設シ二十八日本学園ノ開園式ヲ挙ク翌四月二十八日ハ恰モ結
核予防ニ関シ畏クモ 皇后陛下ヨリ賜ハリタル令旨奉戴ノ日ナリ乃
チ斯ノ佳辰ヲ卜シ入園式ヲ挙行ス時ハ方ニ決戦多難ノ際ニ在リ猶且
挙式ヲ得タルハ寄付諸賢ノ賚ナリ本施設ハ今ヤ発程セリ今後園児ノ
励精肄業ヲ卒ヘ邦家ニ貢献スヘキハ期シテ待ツヘシ乃チ一言□来ス
ル所ヲ志シ諸ヲ不朽ニ伝フト云フ爾

昭和十八年六月     東京市神田区長岡田光蔵識

2008年5月17日 (土)

映画「道」フェデリコ・フェリ-ニ監督、に見る結核の少年

道 フェデリコ・フェリ-ニ監督  1954年 イタリア 五四年ヴェニス国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞
  
貧しい上に少々足りない娘ジェルソミーナは、オートバイで旅まわりをする曲芸師ザンパノーの助手となって旅に出た。本作は最も感動的なフェリーニ作品として知られ、アカデミー外国語映画賞受賞作。
ジェルソミーナは浜辺で薪拾いをする長姉、母から頭が弱いと言われ口減らしとしてとして旅芸人となる。映画では知的障害を思わせる表現は見受けられず、本人の「料理ができない」と、母・サンパノの「おまえの頭では」といった言葉ぐらい。ジェルソミーナが自分の能力のなさに自信を失っている場面で、「誰にでも世の中に存在する意味がある」と励まされる。そこに障害と生きる姿があった。1回見た感想は、男と女の心の行き違いの映画、純心で少々足りない「女」を設定することで、男は愛に気づくといったところか。気になる場面は、結婚式の盛大な宴会をしている家の奥の暗い部屋のベッドに寝ている少年が出てくる所。その少年の従兄弟たちが、ジェルソミーナの芸を見せて笑わせてあげようとする。小児結核で寝ている少年と、心配し、楽しい経験をさせてやろうとする従兄弟たちの思い。少年の世話をする大人は、大声で近寄ることをしかる。

2008年5月16日 (金)

国民学校令以前「養護学校」の教育制度による類型別検討

http://members.jcom.home.ne.jp/kiri-n/ruikei.htm  より部分

<教育制度による類型>
Ⅰ特別小学校型
 Ⅰの1 家庭修学規定による私立小学校
当時の私立小学校は小学校令(1900)第三六条第一項但書の家庭修学規定による学校であった。白十字会林間学校の卒業証書には、その規定によって「所定ノ教科ヲ卒業」すると裏書きされた。花岡学院は家庭修学規定を前面に出さず、自校を私立小学校としている。両校は同一法令を根拠としてる。
 Ⅰの2 家庭修学規定による公立小学校
 東京府立久留米学園は、同園規定(東京府広報1417号、1936)第三条に、「小学校令第三十六條第一項但書ニ拠リ市町村長ノ認可ヲ受ケタル者ニ対シテノミ入園ヲ許可ス」とあり、家庭修学規定を根拠としている。
Ⅱ小学校分教室型
 東京市養育院安房分院は、その設立以来施設内教育を行うが義務教育の履修ができないでいた。1936年家庭修学規定を適用し、小学校卒業資格を得ることができるようになった。その後国民学校令によって家庭修学が認められなくなり、館山市と船形国民学校分教室とする覚書きを取り交わした。
Ⅲ教育リソース型
 Ⅲの1 小学校に類する各種学校
 富浦海浜学校の学則第十条は「教育課程は小学校令施行規則第十七条に依る」とある。その十七条は「小学校ニ類スル各種学校」を規定するものである。学則に「元の市町村立小学校に復帰」する際に、「適当と認めたる者には修了證書を授与」するとある。京都の八瀬学園もこの類型である。
 Ⅲの2 校外教授規定による学校
 熱海外気学校は「虚弱児童養護教育ノ件通牒」(東京都公文書館315E8・20、1932)によって、東京府知事が小学校の教育課程を履修できる学校であると承認し、その根拠を「校外教授」としている。東京府一地方独自の「みなし規定」である。
 Ⅲの3 始業式・終業式を居住地の小学校で行う
 東京市立片浜養護学園の修業生台帳によると、例えば1951年度は児童の転入日を4月19日、転出日を3月20日としている。これは地元小学校で卒業・進級できるように、始業式・終業式をはずした設定と考えられる。年代のずれがあること、その確認が今後必要であることを前提に、養護学園で小学校の教育課程を履修して、進級・卒業そして始業式・終業式を居住地の小学校で行う学校と類型化できる。
Ⅳ小学校付設郊外教室型
大阪市立六甲郊外学園は、津田(2001)の研究によると設置調書に「毎週交互ニ二、三学級児童ヲ教師引率ノ下ニ本学舎ニ於テ学級教授ヲ行」う、とあるという。小学校教育の一部として、郊外の同学園で「健康ノ増進回復」の運動と学習を「学級教授」として行っていた。
Ⅴ地域小学校通学型
常盤山林間学校は、設立者小児科医篭山譓の長女野呂小夜子の手記によると、虚弱児が結核になることを防ぐことを目的に教室や寄宿舎の設備を整えたが私立小学校としての開校は実現せず、学齢期の子どもは近隣の深沢小学校に通学した。
Ⅵ施設内教育型
 初期の東京市養育院安房分院は、小学校の教育内容を教えるが小学校教育の履修にならなかった。

考察
家庭修学規定を根拠に私立小学校として成立し、その後法の運用や地方行政・一学校の工夫(通牒、みなし規定、覚書等)によって私立・公立の学校が出来た。地方や個人・団体がその必要に応じて虚弱児の学校の仕組みを作り、様々な形態の学校を設立し、それが新しい教育制度の土台となった。

2008年5月15日 (木)

病・虚弱児教育史研究の先行研究

 二文字理明は「わが国における病弱虚弱児教育制度の成立」(二文字、1974)において「虚弱児教育の成立」の「前提」として次の事項をあげている。

  ・小学校の就学率の急上昇及び達成
  ・医学的な衛生概念の普及
  ・国の発展の基礎としての国民体位の向上
  ・国民保健の最重要課題としての結核予防

 病・虚弱児教育の歴史的研究としては、この二文字の論文が最も古いものである。
 また、杉浦守邦は、「山形県特殊教育史 精薄・虚弱編 -戦前の促進学級・養護学級のあゆみ-」(杉浦、1978)において、山形県にとどまらず、全国的な動向を詳述している。その中で虚弱児教育については、「行政的には学校衛生の中ですすめられていた」ことを指摘し、「大正時代の児童中心主義に立った健康保護の観念から、国家の要請に応え得る健民の育成に方向が転換していく」と学校衛生の変化を指摘している。また次のような指摘も見られる。  

  ・戦前即ち小学校令、国民学校令時代にあっては、精神薄弱児、虚弱児に対する教育は普通教育の中で扱われていて、盲、ろう児教育と一括して特殊   教育体系に包含するという思想はまだ定着していなかった。
  ・結核対策との関係から、虚弱児の管理で結核予防ができるという考えは「迷夢」であった。

 これら杉浦の研究は、小学校内における「養護学級」等虚弱児のための特別学級に視点を当てた論述が多く、白十字会林間学校、一宮学園の紹介、熱海外気学校をはじめ当時の「養護学校」の一覧はあるものの、虚弱児のための学校についての論述は少ない。
 全国病虚弱教育研究会が全国的な組織力をもってまとめた「日本病弱教育史」(全国病虚弱教育研究会、1990)は、都道府県別の病弱教育通史を提示している。この研究は、それまでの通史では指摘されてこなかった、戦前期あるいは古く明治期における病弱児あるいは病気の子ども・学生の教育について紹介しており、今まで知られていなかった史実も多く記載されている。しかし、都道府県別の縦断的な通史であり、全国的な歴史を総合的・横断的に論述したものではない。また、静岡県通史において熱海外気学校に関する記載はなく、同校は地元静岡においても忘れ去られた学校になっているのである。
 

2008年5月14日 (水)

特殊教育通史における昭和初期の病・虚弱児教育

 通史としてはまず「日本障害児教育史」(荒川ら、1976)と「特殊教育百年史」(文部省、1979)をあげることができる。
 荒川らは、「病・虚弱児の教育は、国民体位向上の要請から児童保護の立場で取り上げられた」との書き出しで、「日清・日露の両戦争を経て、国民の体位作りが国防と国の発展の基礎」との考えが「文教政策に反映し」た、としている。そして病・虚弱児教育の進展要因を、次の各事項に求めている。

  ・学校衛生行政の整備
  ・結核予防と処置対策
  ・第一次世界大戦を経て民主主義の導入
  ・新運動にみる個性尊重の教育
  ・貧困層の虚弱児を対象とした養護施設の設置の必要性
 さらに「さまざまな名称の養護学校組織」として白十字会林間学校等7校の名前をあげ、また、休暇集聚、養護学級の存在を紹介している。この「日本障害児教育史」には熱海外気学校の名前はなく、さらに、戦前における病弱児教育についての言及も見あたらない。
 「特殊教育百年史」(文部省、1979)は、通史を「戦前の特殊教育」「戦後の特殊教育」と大きく二編に分け、前者では「身体虚弱教育」の章を、後者では「病弱・身体虚弱教育」の章を設けている。この章の設け方から分かるように、病弱児教育は戦後から書き起こされており、戦前の病弱児教育については書かれていない。「特殊教育百年史」は戦前の「虚弱児養護の広がり」の要因として次の各事項をあげている。

  ・学校衛生行政を中心とした身体虚弱児の養護や教育的措置の推進(大正期)
  ・国民教化政策、国民の体位向上を目指す健民健兵策の推進(以下昭和期)
  ・経済不況の拡大で生じる貧困層の身体虚弱児の対策の必要性
  ・身体虚弱児童の養護は結核予防に寄与するとの認識

 そして具体的な身体虚弱児のための学校や学級について解説を加えて、学校に関しては、白十字会林間学校、富浦海浜学校等4つの私立学校の目的・教育活動等を紹介している。しかし、熱海外気学校については、その名称と設立者高塚賢三の名を記載するにとどまっている。ここで指摘できることは、身体虚弱児教育の成立を「学校衛生行政」「国民教化策」「経済不況」といった国家レベルの要因をあげて説明しているが、具体的な学校として紹介してる4校はすべて私立の学校であるということである。昭和戦前期における病・虚弱児教育は、公立学校に比べ、私立学校の存在が優位である点は一応うなづけるものの、それら私立学校も、通史で説明されている前記4つの要因に中心を置いたものであり、他に重要な役割を果たした可能性のある学校の歴史的な事実の掘り起こしはなされていない。残された大きな課題と思われる。

2008年5月13日 (火)

病・虚弱児教育の歴史研究を一覧

2000年時点での整理(障害児教育通史、他領域の歴史の中に病・虚弱児教育を含むものも取り上げた)  

1973年 日本学校保健会「学校保健百年史」第一法規出版.
1974年 二文字理明「わが国における病虚弱児教育制度の成立」大阪教育大学紀 要.第23巻.
1976年 荒川勇他「日本障害児教育史」福村出版.
1977年 村田茂「日本の肢体不自由教育-その歴史的発展と展望-」慶応通信.
1978年 杉浦守邦「山形県特殊教育史 精薄・虚弱編 -戦前の促進学級・養護 学級のあゆみ-」山形大学教育学部養護教室.
1978年 文部省「特殊教育百年史」東洋館.
1979年 東和田巧勝・猪岡武「戦前の大阪における病虚弱児教育のあゆみ」第17 回日本特殊教育学会発表論文集.
1981年 田中勝文「『養護』概念の検討-教育学における『養護』概念の発達をめぐって-」愛知教育大学研究報告.30(教育科学編).
1988年 芦田千恵美「戦前学校衛生の展開と児童養護-特殊児童の教育措置をめ ぐって-」教育学雑誌.
1989年 芦田千恵美「大正~昭和初期の養護学級に関する一考察」日本大学人文科学研究所紀要.第37巻.
1989年 舟橋秀彦「第二次世界大戦前、茨城県における虚弱児教育の成立・展開過程に関する研究」障害者問題史研究紀要.第32巻.
1990年 全国病虚弱教育研究会「日本病弱教育史」日本病弱教育史研究会.
1992年 長谷川千恵美「身体虚弱児教育形成史 Open Air School/Classの受容過程を中心に」日本大学人文科学研究所紀要.第43巻.
1992年 桐山直人・中村勝二「白十字会林間学校に関する一研究-虚弱児教育を行う林間学校の設立について-」三重大学教育実践研究指導センター紀    要.第12号.
1992年 長畑正道「わが国における心身小児医学のはじまり-別所彰善と精常園、生成学園尋常小学校、少年健康塾-」小児の精神と神経.30(1).
1995年 長谷川千恵美「明治~大正中期における児童の疾病・健康問題」教育学雑誌.第29巻.
1995年 平野雅人「三田谷治療教育院における翠丘小学校の成立過程の研究-精神薄弱児施設における教育と福祉の分化過程を中心に-」東京学芸大学卒業論文.
1997年 青木純一「結核撲滅運動と国民教育-日本結核予防協会の機能と役割を中心に-」筑波大学大学院教育研究科修士論文.
1997年 平野雅人「三田谷啓の治療教育思想形成に関する歴史的研究-統一的児童保護機関としての三田谷治療教育院-」障害者問題史研究紀要.第38 号.
1997年 野呂小夜子・桐山直人「或る一人の医師の夢が果たされた 常盤山林間学校と篭山譓」創栄出版(私家版).
1998年 駒松仁子「昭和初期一虚弱児施設、三田谷治療教育院の治療教育について」子どもの心とからだ.第6巻第2号.
1999年 桐山直人「茅ヶ崎の小さな学校 旧白十字会林間学校の三二年」草土文化.

2008年5月11日 (日)

写真・絵画集成 日本の障害児教育 全3巻

Nihon 編集/津曲裕次 編集協力/リハビリテーション史研究会
写真・絵画集成 日本の障害児教育 全3巻 2004年3月 日本図書センター
第1巻 共に生きる社会をめざす
第2巻 あたらしい教育の誕生
第3巻 激動の時代をのりこえて
A4版各巻136ページ  
27000円+税 分売不可

 昨年春、津曲裕次氏(長崎純心大学大学院教授、筑波大学名誉教授)が所蔵する写真資料、盲・聾・養護学校沿革誌、障害児教育・福祉の研究書が日本図書センターの編集室に並べられた。津曲氏自身が撮影した写真のアルバム、写真の複写やコピー、パンフレットやポスターも含まれている。その数は約百数十点に及んだ。写真の数にすると数千枚に及ぶことと思われる。
 それを前に、津曲氏、リハビリテーション史研究会のメンバー、図書センターの編集者久間氏で編集会議を行ったのは5月であった。そこで津曲氏は「小学校の総合学習で子どもたちが見て、調べて使える本にしたい」との編集の意図を語られた。それにより障害児の学校のことを知らない、あるいは「暗い」といったイメージを持っていることを変えて、障害児が必要な支援を受けながら地域の学校で学び、地域で友達と遊ぶ時代がくるようにとの願いを込めている、とのことであった。
 すでに津曲氏と久間氏の間で、大まかな構成が立てられており、それに沿って写真や図、絵画の見直しが始まった。そこへ、桐山が病弱教育史研究の立場から収集した絵葉書や写真資料と、神奈川県立総合教育センター図書史料室所蔵の沿革誌等を加え、また聾教育史を研究する野呂一氏の手話教育に関する写真資料が加わり、それを含めて再度編集が行われた。また、カメラマンと編集者による取材、図書館で資料収集を行った。
 第1巻は1981年国際障害者年から始めて現代を中心に編集、第2巻は塙保己一の「群書類従」から始めて昭和初期の光明学校、思斉学校まで、第3巻はやはり昭和初期の八幡学園から昭和50年代の金井康治君の小学校自主登校まで、となっている。
津曲氏による「総合解説日本の障害児教育歩み」6ページが全編の案内となり、「障害児教育と法制」8ページとコラム4ページがやや専門的な解説となっている。年表、文献が巻末にあり、より詳しい研究につなげる配慮がされている。
写真が映し出す情報量は多く、教育・福祉の場における子ども・教師やその事業を支える人々の生活実態を見ることができる。例えば、肢体不自由児学校の光明学校のページには三輪車が複数写っている。車椅子がなかったためと思われる。知的障害児の治療教育を行う藤倉学園の机は高く作られており、立って学習している。集中力を高める工夫であるという。明治期に盲学校を設立した初代校長の肖像のページを見ると、その多くが黒い眼鏡をかけていたり目を閉じている。盲人自身が学校作りを行ったことが分かる。1930年に別所彰善医師が宝塚に設立した生成学園小学校は平屋の小さな日本民家であり、1931年に高塚賢三医師が設立した熱海外気学校は白壁3階建ての洋風サナトリュームのようである。民家や病院が学校になったのである。これらは、文字による歴史書では知ることができないことである。読者がこの本を見て思いめぐらし、心に生じることは、写真によって伝わる歴史感覚であり、当時の生活感覚である。それらの感覚を持つことで歴史認識が高められるように思われる。
 小学生が見て、読んで障害児教育の歩みを学習しやすい本であるとともに、障害児教育の研究者にとっても多くの発見がある本であると思われる。東京の学校も多く取り上げられている。やや高価ではあるが、ご自身に購入していただくとともに、関係する図書館で購入することを薦めて頂けたら幸いです。

2008年5月 9日 (金)

病弱教育史研究の課題、動機と目的(2006年4月)

病弱児・虚弱児の教育は学校教育法の「特殊教育」の中に位置付いています。しかし病気の子どもの教育全体を特殊教育が取り込んではおらず、また通常教育からも取りこぼれております。今後特別支援教育が進むにあたって、通常教育の中に病弱児・虚弱児の教育が位置付いて行きます。それは望ましことでありますが、病弱児・虚弱児教育特有のノウハウや施設設備等があり、それを維持していかなくてはなりません。また病気の子どもを通常教育に取り込んでいくにあたり、学校保健の枠組みをどのように活用するかが課題となってくると思われます。 -K整理

動機と目的 -N提案

・厚生労働省等の官僚と施策上の話しをする際には、法律と歴史の見識が必要
・病弱養護学校が廃校されて、歴史的資料が散逸し始めている
・今までの特殊教育の土台の上に特別支援教育を積み上げる必要がある
・研究所の病弱教育研究部がなくなった今こそ病弱教育を体系化したい。それには歴史研究が必要
・学校保健と病弱教育の連携をとるための基礎的な研究として歴史研究を行う

2008年5月 8日 (木)

東京帝国大学医科大学精神病学教室の巣鴨病院内「修養学院」

東京帝国大学医科大学精神病学教室の巣鴨病院内「修養学院」
1)概要
 1886年に榊俶(サカキハジメ)がドイツ留学から帰国し、帝国大学医科大学精神病学教室の初代教授に就任した。現在の東京大学医学部精神神経科の始まりである。精神病教室は巣鴨の東京府癲狂院(後に東京府巣鴨病院に改名、現在の松沢病院)を臨床の場としていた。そのため、精神病学教室はその主体を巣鴨病院におき、病院の門柱に、病院名に並んで「東京帝国大学医科大学精神病学教室」の門標がかけられた。1904年には、東京府と東京帝国大学の間で、精神病教室の主任教授を府吏員として院長に任命する協定ができた(A)。巣鴨病院は、東京帝国大学医学部精神病教室と一体の物であることが分る。
 1901年、呉秀三が医長(後院長)にな、作業療法の開始、窓を大きくするなど監置室の
改造、手足の革製緊縛具の使用禁止など、患者の開放的処遇を実行した。1909年、「入
院中の児童ことに精神薄弱者を対象とする教育施設を設け、修養学院と称した」。翌年
には宗教大学(現大正大学)の戸田俊定を主任に嘱託した(A)。
 1919年10月、巣鴨病院を廃して松沢病院に移転し、その時を以て従来病院内にあった
東京帝国大学医科大学精神病教室は病院から分離して東大内に移った。松沢に移って
からも修養学院が継続したかどうかは「東京都立松沢病院七十五年略史」に記載はない。
しかし、高橋智の小金井学園研究において、小金井学園設立の前史として修養学院が
「関東大震災による建物崩壊で機能を停止した」(B)とある。
 このように見てくると、東京帝国大学医学部精神病教室は1909年に巣鴨病院に病院内
学校「修養学院」を開設し、松沢に移転し松沢病院から東京帝国大学医学部精神病教室が分離した後も1923年の関東大震災まで存続した、と考えられる。
2)先行研究
○綾部優子「日本における明治期の精神障害者リハビリテーションの歴史的研究」「障害
者問題史研究」第38号、精神薄弱問題史研究会、1997
「建築図によると小学校がある。東京府巣鴨病院規則第十五章、教育は明治38年に構想化していた」
○綾部優子「日本における近代精神看護の成立過程」2002、リハビリテーション史研究会
発表資料
「若年精神障害者明治42年3月から登校していた挙動帳記載はあった」、若年精神障害者の調査を行い、1909年3月から1910年の4月までの修養学院入学者は5名で、その年齢や病名、転帰をまとめている。「選抜の基準は学習意欲で、本人が勉強したいと担当医や呉秀三の回診時い願いでていた。学習内容は読み、書き、計算などである」
○綾部優子「日本における近代精神看護の成立過程」2003.2.22リハビリテーション史研究会発表資料
  修養学院の「断片的な授業風景の写真など、資料は残されている」、松沢病医から大島藤倉学園へ転入した者がいる、と記載している
○綾部優子「1920年代(大正期)における精神障害者施設入所の状況」2003、リハビリテーション史研究会発表資料
入所年齢層、1923年の「入院患者数は504名」「5歳~10歳代が12.6%」、「挙動帳によれば、病院内学級である修養学院は大正期は存続していた」
3)文献・資料
A林暲「東京都立松沢病院七十五年略史」1954、都立松沢病院 西牧研蔵
B高橋智、清水寛「城戸幡太郎と日本の障害者教育科学」1998、多賀出版。p604小金井学園の項
C精神医療史研究会「松沢病院九〇年略史稿」1972 西牧研蔵
4)研究課題
綾部研究の追試
呉秀三研究、以下文献の調査
呉博士伝記編纂会編「呉秀三小伝」1933、呉博士伝記編纂会
呉秀三先生業績顕彰会「呉秀三先生~その業績」1974、 精神医療史研究会
呉秀三先生顕彰会「呉秀三先生顕彰記念誌」1981
岡田靖雄「呉秀三 その生涯と業績」1982、思文閣出版
小川鼎三「呉秀三先生没後50年記念会誌」1983、順天堂大学医史学研究室
戸田俊定の調査
「修養学院」の開設から終焉までの沿革、対象者、教育内容
関東大震災後に再開しなかった経緯、修養学院の実践蓄積を継承できなかったのはなぜか

2008年5月 6日 (火)

「きみの声 ぼくの指 私と手話で話そうよ!」

横谷順子「きみの声 ぼくの指 私と手話で話そうよ!」1~4、講談社、2003年
 夏木るるは生まれた時から耳が聴こえない。中学まではろう学校、普通高校に進学して、先生になろうと大学へ。普通中学とろう学校で体育の教育実習をして、どっちの先生になろうか・・・で終わる物語。初めての聞こえる世界=普通高校での不安を友達が支えてくれる。学校とは、そういった人との出会いがあり、将来の夢を作り出す場として描いている。聞こえない娘と父、聞こえない自分と聞こえない男性・聞こえる男性との恋愛などをサラリと描く。周りには聞こえる弟と聞こえない兄との関係、ろう学校における口話教育と手話による教育の確執、日本手話と日本語対応手話、フリースクールで手話を教える活動など、現代的な話題を盛り込んでいる。作者は、手話も口話も、でも手話で教える立場にある。まず手話を教える、との考えに立つ。
 元気で活動的な夏木るるは、進学した高校、大学、教育実習で行った中学までも変えてしまう魅力ある少女である。ろう者が話せるようになることが、自分のためになるはずだ、と語るろう学校教師を設定し、実習で手話を使うるるについてその是非を論議する教師たちを描いて居る。るるの、口話を学んで声を出す学びの中で、手話を使わないようにと先生に手を縛られる経験も描いている。
 父は、口話では娘の気持ちを理解しきれない限界を感じて、手話を娘と一緒に習い始める(母親がいない設定)場面がある。ろう教育や聴覚障害者の世界を知らない者にとっては、ろう者が手話と出会うことはごく普通のことのように思っているが、聴覚障害の子を持つ親、そしてその聴覚障害の子にとって、手話との出会いはそう簡単なことではないことがよく伝わってくる。学園、恋愛、友情、親子、兄弟といった少女漫画によくある世界の中で、聴覚障害者とその家族の苦悩と、苦悩の中から次の人生を選んでいく様子を、柔らかな線で描いている。

生成学園小学校の概要

生成学園小学校は、大阪市東区唐物町で精常院という医院を営む別所彰善が、1930年4月8日兵庫県長尾山(現宝塚市雲雀丘1丁目)に設立した私立小学校である。別所は、1926年に長尾山8万坪を購入し、興生院という医院を作り、住宅地を分譲して自分が理想とする「精常園」と呼ぶ町作りを行った。その過程で設立した小学校である。1930年5月18日に、兵庫県から「精常生成尋常高等小学校設立認可」が下りている。
 入学したのは、精常園内に住む子ども、興生院で治療を受けながら健児寮(寄宿舎、1928年竣成)で生活する子どもたちであった。1933年には常設少年山林健康学塾を開設し、生成学園小学校の他、近隣の中学校等に通う生徒の受け入れも開始した。この他、夏休み期間に生成学園小学校を会場にして、精常の理論にそった生活をする精常夏季開放健康学校という健康増進施設を営んだ。1935年の「精常園教養診療要目一覧」によると、次のように説明している。「診療要目」とあることから、治療の一環として教育活動が企図されていたことが読みとれる。

--------------------
生成学園尋常小学校 本学園は別所園長の奉仕事業として設立されたる小学校にして、現代教育の最大欠陥たる徳育意育に主力を注ぎOpen Air Schoolの原理に則した、遵自然の学校生活による健康教育を十全に課し、小数教育によりその教育の徹底を計り、心身溌剌たる健康児童養成を眼目せる小学校である
少年健康学塾 生成学園児童及び中等学生の良習涵養、健康増進を目的とせる学塾にして、学長及学園教員と寝食を共にせる家庭的学塾である
夏季少年林間開放健康学校 心身虚弱なる児童と青年をして山林開放生活に習熟せしめ、経験豊富の指導者と、熟練なる医員を集め、医園と学園の協力により夏季休暇を利用して、健康増進-知育-徳育-意育の完成を期するのである
--------------------

 精常園の運営は、別所の死亡(1940年)、第二次世界大戦後の医療保健制度の改革等を経て衰退し、生成学園小学校も1950年に廃校となる。1952年に再認可され、場所を移して再開校するが、1964年に閉校した。現在は、精常林間講堂跡に学校法人生成幼稚園(1936年開園)が存続している。

2008年5月 5日 (月)

岐阜県教育 大正5年から

大西永次郎は岐阜県で仕事をしていた?その調査、岐阜県立図書館でマイクロフィルムで閲覧できる。

岐阜県教育 大正5年(目次一覧) 体育、学校衛生、障害児教育に関する事
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 岐阜県教育 第258号(大正5年1月30日発行)
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 ○彙報
  ・体格調査資料徴兵検査成績
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 岐阜県教育 第260号(大正5年3月30日発行)
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 ○研究
  ・東京市本郷小学校に於ける学校衛生の施設
 ○思潮
  ・口内不潔は扁桃腺腫張の原因
  ・弱き運動家の内臓
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 岐阜県教育 第261号(大正5年4月30日発行)
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 ○評論
  ・学校衛生上最注意すべき扁桃腺/野村仁
 ○研究
  ・観音崎小学校林間学校の施設(本県交付)
  ・吃音矯正の実験(1)/土屋善市
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 岐阜県教育 第262号(大正5年5月30日発行)
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 ○評論
  ・小学校児童の体育問題/竹内伊之助
  ・体育概見/田淵忠三郎
 ○研究
  ・吃音矯正の実験(2)/土屋善市
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 岐阜県教育 第263号(大正5年6月30日発行)
----------------------------------------
 ○評論
  ・体育実施愚案/安江重造
 ○研究
  ・吃音矯正の実験(3)/土屋善市
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岐阜県教育 第264号(大正5年7月30日発行)
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 ○各流談叢
  ・水泳の価値  (野村医長)
 ○研究
  ・我校の体重調査/佐藤貞次郎
  ・我校に実施せる十分間体操教材/田淵忠三郎
  ・吃音矯正の実験(4)/土屋善市
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 岐阜県教育 第265号(大正5年8月30日発行)
-----------------------------------------
 ○研究
  ・吃音矯正の実験(5)/土屋善市
 ○彙報
  ・小学校児童体格調査

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 岐阜県教育 第266号(大正5年9月30日発行)
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 ○世論概観
  ・内臓諸器関の発達と筋肉の発達(池上弘氏) ・民族意識と教育(小西重直氏)
 ○研究
  ・吃音矯正の実験(6)/土屋善市
 ○雑録
 ・林間復習会(幸村正三) 
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 岐阜県教育 第267号(大正5年10月30日発行)
-----------------------------------------
 ○世論概観
  ・貧弱なる日本の運動会(佐々木雷風氏) 
 ○研究
  ・体育思想養成と本校の施設/安八郡安井小学校
 ○研究小觀
  ・米国小学校運動場の砂山と沼 
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 岐阜県教育 第269号(大正5年12月30日発行)
-----------------------------------------
 ○名流談叢
  ・岐師附属校主催算術科研究会記録(10)
   29、劣等児救済問題 30、諸問題 31、知的訓練(奥田穰) 題 33、採点法問題
 ○研究大観
  ・欧米の公園と教育的設備

2008年5月 3日 (土)

京都市児童院夏期林間保育所

京都市児童院夏期林間保育所
 1931年、夏期林間保育所を御室仁和寺境内に開設、参加人員50名、「虚弱児童に対する栄養並びに衛生思想の涵養のために、夏期3週間内外林間に収容し、尚昼食の給与を行い、偏食の矯正・間食の統制等による体位の向上、改善に資する」。            「京都市児童福祉百年史」(1990)

2008年5月 2日 (金)

郊外学舎(京都)

1937年 龍池小学校、龍池教育会山科郊外学舎
 文化の高い都会は住む人を高尚優美にし、その生活を豊か にするが、頻繁なる交通、煩い多き競争、繁激なる刺戟、 混濁せる空気、日光不足は心身ともに疾病に冒され易い。 -略-自然を対象とし、土地に親しむ労作は、人間教育上 頗る意義深いものである。-略-子どもが学校に在学して いると、いないとかかわりなく、区民全体がこれの維持に あたり経費を負担した。  「龍池郊外学舎」(年未記載)
同年  植柳小学校、山科郊外学舎
1940年 豊園小学校、神山郊外学舎
 児童数が学校敷地の許容範囲を超え-略-非常に狭小な学 校の環境を甘受-略-。教育条件改善のエネルギーが郊外 学舎に向かったと考えられる。(冨井、2006)
同年  醒泉小学校、醒泉郊外学園
1941年 乾国民学校、松尾郊外学舎
1943年 有隣国民学校、有隣教育財団鏡石郊外学舎

2008年5月 1日 (木)

日本赤十字社京都支部夏季児童保養所

  日本赤十字社京都支部は、1913年に「結核予防撲滅施設計画」を制定し、「毎年夏季に於て避暑保養所を支部管内適当の地に開設し身体薄弱なる児童及腺病質の児童を収容し之が体質の改善に力むること」とした。そして以下を実施した。「日本赤十字社京都支部沿革誌」(1931)
1914年8月1~25日 第1回夏季児童保養所 
 場所 :天橋立海水浴場、阿蘇小学校を宿舎とする
 収容児:京都市内各小学校より申込ましめ、身体検査の上、本所設置の目的に適する者を選択、58名
「日本赤十字社支部夏季児童保養所実施概要」(1934)
 大正三年我日本赤十字社京都支部ガ結核予防施設トシテ夏季休暇聚落ヲ開拓セシ以来茲ニ二一星霜ヲ重ネ今日ノ如ク全国ニ進展発達ヲ来シ -略-  夏季休暇聚落ハ虚弱児童養護施設ノ重要ナル位置ヲ占メ、シカモ結核予防撲滅ノ根底ヲナシ、将タ亦学校衛生上偉大ナ効果アルヲ認識セラレ、更ニ社会事業ノ見地ヨリ本事業ノ普及ヲ強調スルニ至レリ

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