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2008年4月

2008年4月29日 (火)

学童養護協会沿革

    1936年 4月 東京市麹町臨海学園(鎌倉材木座)で有志の発起による養護学校代表
者の会合が行われる。出席者は各校長、東京市内の養護学級担任訓導、東京市の体育課長ら。体験座談会、懇談を行い、「養護事業の発達と促進つる為に協同の機関を設ける事が急務であると意見一致し」て「学童養護協会」を創立する。理事長秋場隆一、理事飯田吉太郎他10名。協会の資金後援者丸見屋商店主三輪善米。
  *  *  「養護に関する研究の発表機関として」雑誌「子供の生活」を発行する。(同誌は前年から発行されており、協会発足以前からの雑誌であった可能性がある)
  1937年 1月 「子供の生活」を「健康教育」と改題。発行部数1万5千に増加する。
同月 健康増進の歌を募集。「謳へ日本」「太陽の子」が当選しビクター児童レコードで発売(7月)する。作曲中山晋平、編曲深海善次。
    3月 6日、養護学校中心の活動から養護学級との連携を作るため、各養護学級担任訓導を中心とする第1回「研究座談会」を開催する。
    4月 11-12日、熱海外気学校において学童養護協会理事会を開催する。協議事項は、文部当局への補助充実陳情等7件であった。
   同月 理事長秋場隆一、欧州の虚弱児童養護状況視察に出かける。7月23日帰朝。
    7月 東京誌麹町臨海学園を背景として映画「進め!!健康へ」(35ミリ及び15ミリ)を作製。各小学校の保護者会、母の会、教育会に出張映写し、全国で広く利用された。
   8月 「健康教育ニュース」と題し東京府立久留米学園、江戸川小学校、麹町小学校臨海団等の夏季の児童生活を16ミリ映画にする。
   同月 名古屋市で学童養護協会主催、名古屋新聞社後援で「学童養護座談会」を開催する。この会がきっかけとなり、同年11月5日「中部日本こども養護協会」が発会する。
   10月 2日、第2回「研究座談会」を開催する。
   11月 11日、東京軍人会館で学童養護協会の集いとしてお話と映画の会を催す。参加者1500名。
   12月 養護学級の児童、保護者、担任者との「養護学級連合大会」を開催する。東京市の養護学級が殆ど参加した。
   1938年 1月 「健康教育」誌発行の最終号となる。
    * 学童養護協会内部に「或す障碍」が生じ「健康教育」誌発行不能になる。秋場理事長紛争を避けて辞任する。
   6月 5日、教育会館に理事会を招集、協議の結果、学童養護協会は解散し「大日本学童健康協会」を設立する。会長藤井利誉(元東京女高師教授、元東京市教育局長)、副会長安東寿郎(元東京高師教授、文部省嘱託)、飯田吉太郎(元六甲郊外学園長)。
   11月 廃刊となった「健康教育」誌を「養護教育」と改題し発行開始する。
   1939年 5月 27日、大日本学童健康協会定期総会を開催する。
    6月 15日、小理事会を開催し、協会規定に依る講演会開催の件を協議する。
    7月 「養護教育」誌の発行部数が2万部となる。
   同月 8日、学童健康後援会を開催する。講演、厚生省予防局長高野六郎、文部省体育課長岩原拓、警視庁予防課長井口乗海。
   1940年 2月 大日本学童健康協会の地方委員に、河合研究所内「大日本保険教育協会」の地方幹事を推薦し、養護思想の普及を図る。
   5月 「養護教育」誌の編集人が高塚賢三に変わる。同時に誌に副題として「学童健康の相談雑誌」と書き添えられる。
    6月 5日、第3会養護学級研究座談会を開催する。
    7月 11日、花岡学院において、母と教師の座談会を開催する。
    秋  藤井利誉会長辞任する。
    9月 事務所を@@からミツワ石鹸ビル内に移転する。
   1941年 5月 「健康教育」誌廃刊。「国策に協力するため雑誌養護教育を本号限り廃刊することになりました」「尚、本協会の事業は、雑誌廃刊に関わりなく継続」すると記載あり。

国民学校令養護学校規定までの流れ

<国民学校令養護学校規定までの流れ>
1932年 文部省主催第二回虚弱児童養護施設講習会開催
        講習会後「虚弱児童養護連盟」創立
1936年 養護学校11校の校長「学童養護協会」結成
1937年12月「教育審議会」発足、「教育ノ刷新振興ニ関スル重要事項」の調査・審議を開始
1938年  6月「学童養護協会」、「大日本学童養護協会」に改変
       12月教育審議会が「国民学校ニ関スル要綱」において特別の教育施設の助成、郊外学園の奨励を建議
1941年 「国民学校令施行規則第五十三条ノ規定ニ依ル学級又ハ学校ノ編制ニ関スル規定」において養護学級・養護学校を規定

2008年4月28日 (月)

大学医学部と病気療養児の教育

*大学病院の中、と限定するのではなく、大学病院・大学研究室が他の病院や療養所等で行ったこと、と広げて考えるともっとあると思うのです

明治期
・東大精神科の松沢病院内修養学院

・京大小児科学校(平井教授時代から)

大正期
・1920年、田代義徳(東大整形外科)教授、柏学園
・東大小児科栗山教授時代(昭和期かも)、東京府の富士山麓における林間学校に協力(資料があるはずだが出てこないので、忘れないためのメモとして)

昭和戦前期
・1938年、額田豊(帝国女子医学専門学校設立者、現在の東邦大学)、鎌倉学荘
・1938年、竹澤貞女(東京女子医学専門学校、整形外科)助教授、クリュッペルハイム東星学園(フロジャク神父の東星学園とは別物、守屋東設立した方)の医療を担当する
・1942年、高木憲次(東大整形外科)教授、整肢療護園
・名古屋大学精神科と八事少年寮(杉田教授時代)
・慶大の小児研究会(児童研究会ではなかった、これについては資料不足です)
・名古屋大学公衆衛生教室と雀のお宿(鯉沼教授時代)

昭和戦後~養護学校義務化前
・1957年、九州大学小児科「アストマルーム」を作り、小児喘息治療室を発足。遠城寺教授は「風の子教室」と名付けた *西間先生が書いておられるもの
・九州大学小児科のつくしんぼ教室(遠城寺教授時代)、小児科付設幼児グループの通称
・この時代、もっとあたのではないかと思うのですが
・1967年、群馬大学医学部小児科松村龍雄教授、国立大学病院に我国初めての公立の学校を設置 *松村はドイツの小児科の創始者アダベルト・チェルニーの著書「子どもの教育者としての医師」を読んで触発されたという(柳本雄次「群馬の障害児教育を創めた人々」あずさ書店)

最近
・東大小児科、めだかの学校(阿部知子医師の「眠れない夜はお母さんそばにいて」ゆるみ出版2000年)
・国立大学病院全部に院内学級設定

2008年4月27日 (日)

T.T先生へ

いつの時代にも、通常の教育からはみ出てくる子どもがいます。養護学校の中からもはみ出ていく強度行動障害や精神疾患の子どももいます。その時代の教育制度以外の教育を必要とする子どもがいて、その教育を作り上げていく人がいます。それを、テーマに示したように検討してみようと思います。育療誌に発表してきたように、個別学校史研究の蓄積ができてきたので、まずは教育制度(教科履修、病虚弱に応じた教育、義務教育の修了)から検討し、その後は医療システムから検討したいと考えています。
私は病虚弱教育の歴史を研究していますが、そこでやっていることは、今ある教育以外の「その他の教育」、あるいは制度にない「制度外教育」がどのように実践されて制度化していくかを研究しているように思えてきました。研究の進展によって対象が広がる中で、時間不足ではかどらない苛立ち、集中できない不甲斐なさを感じておる所です。発表を契機に、研究を少しでも進めてみたいと思います。

理論實際學校の夏季聚落.

理論實際學校の夏季聚落.
木村泉,高橋與惣共著. 大同館書店, 1927
筑波体、横浜市中央(古川静夫寄贈)
木村:大正8年、東京市衛生技師。大正15年、栃木県学校衛生技師。
高橋:大正8年、新設東京市小梅小学校校長。
大正7年に東京府は夏季聚落に関して訓令
東京府訓令第二十一号(大正七年七月二十五日)
東京市御殿場児童高山聚落、天幕屋舎・消毒用自動車(仏国寄贈)
白十字会林間学校の写真あり
日赤他、小学校独自の夏季聚落の実施があったことを知ることができる

2008年4月25日 (金)

宇佐玄雄「神経質の矯正法」をめぐって

宇佐玄雄「神経質の矯正法」
第一報
 「京都市児童福祉百年史」の年表で、大正11年の三聖医院の開設と「低能児その他性格異常児の教育治療を行う」という記述に出会いました。-そして宇佐晋一著「あるがままの世界」、玄雄氏著「神経質の矯正法」を入手しました。
 「神経質の矯正法」には「三十余年来神経質者の教育治療に従事すると共に、又学校医、幼稚園医として多年学童等の心身の健康に注意し、~研究~指導につとめている」との記述がありました。上記百年史の「~児の教育治療を行う」との記載と合わせて考えると、玄雄氏は三聖医院(病院)の治療の中で、子どもを対象とした何らかの取組みを行っておられたのでしょうか。あるいは通常の診療の中で子どもに関わっておられたのでしょうか。
 玄雄氏は、著書「神経質の矯正法」の副題を「神経質児童の保育陶冶法」とされています。「児童、保育、陶冶」といずれも教育的な用語を用いておられます。玄雄氏の教育面におけるお仕事を掘り起こすことで、京都における子どもの病気や障害の治療と教育、また一般児童の健康・保健事業に、新たな歴史的な事実が加わるのではないか、と考えております。

第二報
 玄雄医師は子どもを対象とした特別な取組みを行ってはおられなかったことが分りました。しかし、子どもの入院、子どもの治療を行っておられたことが分りました。年表の「吃音矯正並びに低能児その他性格異常児の教育治療を行う」が何からの引用であるか今後調査を進めたいと思います。-「趣意書」ではないことが分かり、調査として一歩前進しました。
 「神経質の矯正法 神経質児童の保育陶冶法」の出版は昭和30年で、玄雄医師が亡くなられる2年前です。晩年に出版された本が子どもを対象とした物であり、ご自身が子どもに対して大きな関心を持っておられ、実際に子どもを治療されたいたことが分ります。年表の記述の出典が分ると、どの時点でそのような構想を持っておられたか分るのではないかと思います。
 玄雄医師は、大正8年に東京帝国大学精神医学教室の呉秀三教授のもとで研究されています。ちょうどその年の10月、同教室の臨床の場であった巣鴨脳病院が松沢に移転し松沢病院となっています。巣鴨脳病院時代、明治42年に病院内に「修養学院」という教育機関を設けており、松沢移転後も大正12年の関東大震災までは存続した、とされています。玄雄医師は「修養学院」を実際に見ておられた、と思われます。「低能児その他性格異常児の教育治療」という文言から、玄雄医師がご自分の病院設立にあたり、巣鴨や松沢病院の「修養学院」のことを思い出されていたのではないか、と予想していた次第です。
 玄雄医師の30余年の医療経験の中で、どのような子どもが対象となり、どのような治療を受けたのかといった観点で、読んでみようと思います。また、昭和17年に橋田邦彦文部大臣と面会しておられるとのこと、ますます教育との係わりを感じ取ることができます。

ハンセン病療養所内の教育

ハンセン病療養所
 「日本病弱教育史」にはハンセン病療養所内の教育に関して、以下の11の記載がある。

公立癩療養所大島青松園、香川県
 1919(T8)年に患者学校として大島学園を設置、1932(S7)年に未罹患児の楓学園を設置。
草津町湯之沢部落、群馬県
 1930(S5)年、英国の婦人宣教師コン・ウォール・リー、温泉湯治場の草津町湯之沢部落に聖望小学校。
北部保養院、青森県
 1931(S6)年、松岡学園
全生病院、東京都
 1931(S6)年、全生学園「小学校令ニ準拠之普通教育ヲ授クルヲ以テ本旨トシ、尚進ンデ中学教育ノ課程ヲ授ク」。
長島愛生園、岡山県
 1931(S6)年、長島愛生園の少年舎「平安寮」で、授業を行うようになった。S30年には、治療と勉学の特殊性を総括したハンセン病生徒のための唯一の高校として、岡山県立邑久高等学校定時制普通科新良田教室が開校。
九州療養所
 1931(S6)年、患者及び職員による檜小学校が発足、1936(S11)年に九療学園。1941(S16)年に恵楓学園と改称。
国立癩療養所栗生楽泉園、群馬県
 1933(S8)年、患者子弟未感染児を収容する栗生保育園。同敷地内に学齢児童のための草津小学校分教場が設置。1935(S10)年、所内に入院患児が通う室谷教室が生まれ、1941(S16)年望学園の設置につながる。
国立療養所星塚敬愛園、鹿児島県
 1935(S10)年、入園中の学齢児の教育のため、敬愛学園が開設。
国立宮古療養所、沖縄県
 1935(S10)年、私設教育所を開設、1937(S12)年に八重菱学園と命名。
沖縄県立国頭愛楽園、沖縄県
 1939(S14)年、入園児童のために愛楽学園を創設。
国立新生園、宮城県
 1949(S24)年、追町立新田小・中学校葉の木沢分校。

 1931(S6)年「癩予防ニ関スル件」改正によって、隔離の徹底化が行われる。それに合わせるように、1931(S6)年頃に療養所内に学校を作り、教育施設が整えられたように見ることができる。ここにも法律の整備と執行の歴史がある。隔離政策の中で、社会的な出口がない中においても、子どもがいて教育が行われた。実際の教育指導にあたる者がどのような教育を行ったか、そして学校教育を整備した国や病院長・療養所長は教育にどのような目的を持っていたか、といった検討が研究課題となる。
 また、草津町湯之沢部落の、英国の婦人宣教師コン・ウォール・リーによる私的な営みにおいてはどうであったか。他の私立療養所における教育活動の掘り起こし、そして公的・私的な療養所における教育の比較も研究課題となる。

2008年4月24日 (木)

私立鎌倉学荘

鎌倉と結核 *「或る一人の医師の夢が果たされた」野呂小夜子・桐山直人より
 鎌倉という地域は、結核と深いつながりがあった土地であった。それはどうしてであったろうか。
 明治期日本の医学教育に大きな影響を与えた東京医学校(現東京大学医学部)の内科教師エルウィン・ベルツは、日記(「ベルツの日記」岩波文庫)に次のような記述をしている。

    明治一三年一一月八日-独りで江島へ行く。(中略)なだらかな丘の背を越す
   と-数分で七里浜の海岸に出るが、ここは自分にとっては、日本で一番美しい地
   点である。

 このベルツが鎌倉や湘南地方が結核の療養に適した土地であることを唱え、結核の療養所が数多く建っていった。また結核患者が家や部屋を鎌倉に借りて療養にやって来るということもあったという。明治一九年長与専斉による海浜院、明治三二年中村春次郎による恵風園、大正九年額田豊による額田保養院、昭和八年向山孝之による鎌倉山の林間病院、他多数の結核療養の病院があった。
 さらに、昭和一〇年代の鎌倉には、常盤山林間学校の他二つの虚弱児の学校があった。先に紹介した麹町臨海学園、そして昭和一三年に設立された私立鎌倉学荘である。鎌倉学荘は、内科医額田豊が鎌倉の北部山之内に設立した全寮制の小学校である。結核にかかったり、あるいは先天的にかかりやすい蒲柳の質といった虚弱児を医師と特に密接な連絡を保って学業指導を行い、健康者に成長させようと設立されたものであった。
結核に有効な治療薬がない時代の結核治療は「大気、安静、栄養」と言われたという。その「大気」は空気がきれな所で静養するということであるが、その場所の自然環境と見た景色の美しさが大切で、それがいかにも身体によいというイメージを作り出す。
 ベルツが見た七里ヶ浜からの風景は、太陽に輝く大きな海とその向こうに緑色に大きく見える江ノ島がそびえ、また富士山と伊豆半島が見えて気分がよいものである。気候は東京に比べ暖かく、現在テレビニュースによって東京や横浜で雪が降る映像を見るその時、鎌倉や私が住む茅ヶ崎では雪がないことも多い。また、同じ鎌倉市内でも、海側と内陸部では冬の外気の体感温度に違いを感じるほど、海に近い地域は暖かい。
 風景がよく、温暖で、しかも東京から横須賀線で一時間と少々でやってこれる鎌倉は、東京周辺に生活する者にとって、結核の療養にも子供を預けるにもうってつけの場所であったのである。

2008年4月23日 (水)

京都帝国大学医学部「小児科教室附属小学校」

京都帝国大学医学部小児科教室沿革
1897年 京都帝国大学創設
1898年 医科大学付属病院の建築着手
1899年 医科大学開設
1900年 勅令第三二一号を以て医科大学に属
    する講座の種類及其数を定められる。
    医科大学付属医院建築工事落成
1902年 小児科教授、平井毓太郎
1903年 小児科の診療を開始
1905年 看護婦高橋ミチによると「小児科小
    学校」が設立されたとのこと
1908年 医師高崎佐太郎によると「小児科教
    室附属小学校」が起こったとのこと
1911年 5月15日小児科教室及病舎落成
1916年 小児科教室本館焼失
1919年 小児科教室落成
1922年 1月15日皇后陛下小児科行啓、小児
    科小学校を視察
1925年 教授、鈴木正
1926年 日本小児養護協会創立、小児科教室
    内に事務所を置く。小児科教室機関
    誌「乳児学雑誌」創刊
1931年 教授、服部峻治郎
1932年 4月2日教室30周年記念式典開催
      *記念誌内沿革史をもとに作成 

2008年4月22日 (火)

国民学校令下養護学校の存在を示す文献

<国民学校令下養護学校の存在を示す文献>
1933年 虚弱児童の養護及治療指針 宮原立太郎  5校
1939年 児童と結核     東京府学務局衛生課 14校
1939年 養護教育原理       豊田順爾   17校
1941年 学校体育と学校衛生    大西永次郎   17校
1942年 学童と結核     原島進、志佐博  27校
1942年 忘れられた子供たち    石田博英   28校
1943年 太陽学校         村島帰之   24校

2008年4月20日 (日)

ライフ・ライン~医療少年院・看護師と院生との絆~、江川晴(案)、美村あきの(画)

ライフ・ライン~医療少年院・看護師と院生との絆~、江川晴(案)、美村あきの(画)、秋田書店、①2005年、②2006年
出版社 / 著者からの内容紹介
罪を犯し、そのうえ心や体に病を抱える少年少女を収容し更正する施設・医療少年院。そんな施設に赴任した看護師・夏川凛子は、以前の病院との違いに戸惑うが、法務教官と協力し、更正に携わるこの職場の魅力に次第にひかれ…!?
○江川著「医療少年院物語」を漫画化。「身体障害・精神障害の疑いのある者に対し専門的な治療を行っているH医療少年院」を舞台にしている。医療少年院には、総務的な仕事をする庶務課、教育・処遇を担当する教務課、医務課があるという。教務課は「保安・矯正教育」を行い、法務教官が担当する。医療と教育が行われていることになる。この漫画は看護師の視点から描かれ、看護によって教育を行う身体的・精神的なベース作りが行われ、看護が他者とのコミュニケーションの練習の場となっている様子が描かれている。夏川看護師の看護による子どもの変容が描かれているが、法務教官の役割や活動の記載が少ない。主人公が看護師だから、当然とも言えるが。登場する少年は医療少年院に入る前、罪を犯す前に教育が必要であったと思われる子どもたちであり、またその親が子どもとの関わり方、生きていく上での価値観の持ち方などを教育される必要がある大人であった。人が生活していく上では、様々な困難と喜びがあり、それはそれぞれ小さなことも大きなこともあることを知り、困難を回避したり受け入れて生活する方法を教育される必要があるのではないか。罪を犯した子どもは、具体的な問題を持っている分、それに対する関わり方、教育方法があるのだろう。この漫画は看護の視点で描かれている。教育の視点では、医療少年院はどのように描かれるのだろうか。

2008年4月18日 (金)

愛国婦人会八瀬学園

愛国婦人会八瀬学園
1)概要
 愛国婦人会京都支部が京都市佐々木久彌の篤志を得て、京都市外八瀬青良山腹を開拓して1932年8月創設、学園本館、教室、寄宿舎等300坪、幼稚部と小学校部を設置した。虚弱児の「健康ノ回復増進ヲ図ルヲ重要ナル目的」とし、「学齢児ニ対シテハ小学教科ノ課程ヲ修メ」る「各種学校」であった。園長は豊田順爾(室町尋常高等小学校校医)、医員、訓導、教員、保母、看護婦、炊事婦等を置いた。対象児童は京都府市に在住し、4才以上尋常小学3年生までの身体虚弱児、病後快復期にある者、身体虚弱のため就学猶予中の者等であった。退園して幼稚園または小学校へ転入するときには修業証明書を交付した。1932年度の就学猶予児は京都府郡部市部で計307名あり、その内発育不全、腺病質、呼吸器消化奇病が約60%であった。就学猶予者の診断書類の調査を経て園の職員が家庭訪問し入園を勧誘したが入学者が少なく、八瀬学園を「虚弱児童養護学園と称することを廃し、反対に健康第一主義の八瀬学園と唱えしめ」て入園者を虚弱児童に限らず健康なものでも一層強くなりたい者も入園可能としたところ「開園五ケ年にしてで在園児童八十余名の多きに達」した(G)。満州事変後の社会情勢の変化により1938年3月に閉園し、建物は傷痍軍人職業再教育所分舎となった。
 戦後は京都府立の精神薄弱児施設「八瀬学園」となる。その前身の「山寮」との記録があるが経緯は不明(H)。施設の老朽化に伴い京都の南方桃山に移転し精神薄弱施設機能を移した。八瀬学園の周辺は京都の民間保育園の共有財産「八瀬野外保育センター」となり1971年10月児童更正施設として認可され、森の中で日帰り保育と宿泊保育ができる施設環境として整備された。
2)先行研究
桐山直人「知られていない教育と医学の歩み」、教育と医学第47巻第11号、1999/八瀬学園の所在地と園長豊田順爾を記述
3)文献・資料
G豊田順爾「養護教育原論」1939、右文館/小児科開業医で園長、6年間の経験を元に記述。
H錦織剛男「やせぼっこ ある精薄学園長の記録」1962、圭文館/1957年園長就任、桃山へ移るまでの八瀬学園の出来事を綴る。桐山蔵
4)研究課題
 虚弱による就学猶予者を収容・教育すべく運営しようとしたが入学者が少なく、学園の性格を変えた経緯の整理と考察。
 学園の施設が1938年以降様々な用途に変化している。その変化の時期、施設の性格の確認。
 京都の福祉・教育の歴史研究に当たってみる。
篤志家佐々木久彌研究。
 小児科医、園長豊田順爾研究。
 愛国婦人会について。

2008年4月17日 (木)

軍人援護会三重県支部、勢南勲児寮

軍人援護会三重県支部、三重県
 1943(S18)年、度会郡田丸町の三重昭徳園の施設を引き継いで勢南勲児寮を開設、国民学校初等科3年以上に在籍の身体虚弱児を対象として入寮の上、治療及び教育を施す。

2008年4月16日 (水)

軍事保護院相模保育所

軍事保護院相模保育所
1)概要
 軍事保護院が附属機関として「戦没者軍人遺児保育所」を相模(神奈川県)、摂津(大阪府池田市、開所に至らす終戦)に計画(B)、1945年6月に神奈川県二宮町に軍事保護院相模保育所を開設する。1946年1月からは、戦没者の遺児や戦災者・引揚者等の虚弱幼児の収容保育を実施する傍ら一般乳幼児診療保育相談にも応じた(D)。
 戦後国立東京第一病院二宮分院保育館(C)、1965年4月国立世田谷病院が国立小児病院と改称するに合わせて国立東京第一病院二宮分院が国立小児病院二宮分院となる。
2)先行研究
桐山直人「神奈川県病弱教育史年表 戦前の学級・学校を中心に」(1994)障害児教育かながわリソース、第11号、神奈川県立第二教育センター/元国立神奈川療養所の小児科医で国立小児病院二宮分院で喘息児の治療にも関わった石田尚之医師からの聞き取り調査を元に相模保育所の存在を示した 
3)文献・資料
B甲賀春一編「本庄総裁と軍事保護院」1961、青州会、p220/西牧研蔵
C赤羽「記録する会通信 第20号」2006、戦時下の二宮を記録する会
D駒松仁子ほか「わが国の小児看護の変遷-国立東京第一病院および国立小児病院を中心に-」2002、国立看護大学校紀要V1-1
国立東京第一病院編「国立東京第一病院概況 創立10周年記念」1955、国立東京第一病院/駒松研究が引用
「二宮ゆかりの人物 林芙美子」二宮町図書館だより第9号、2004
「二宮ゆかりの人物 杉田つる」二宮町図書館だより第19号、2006/1945年4月より相模保育所医師
林芙美子「うず潮」1948、新潮社/戦争未亡人の主人公が息子と相模保育所へ行く情景が描かれている
4)研究課題
 研究の基礎データとして駒松研究が引用する「国立東京第一病院概況 創立10周年記念」に当たってみる。引用している、幼児の「思いのまま活動したがる」特性に合わせた「特殊な設備と職員構成」について調査研究を進める。
 戦時下の二宮を記録する会(http://www.scn-net.ne.jp/~akabane/index.htm代表:赤羽興三郎)が調査を進めている。情報交流により研究進展が期待できる。
軍事保護院について。
 神奈川療養所長上島三郎が二宮分院長に着任すると病院内学級設置に努力し、1964年4月二宮町立二宮小学校特殊学級(後山西小学校)が設置されている。
 国立小児病院二宮分院は2002年3月1日に国立療養所神奈川病院に統合される。本体であった国立小児病院は同日に国立大蔵病院と統合し国立成育医療センターとなっている。
 二宮町(民生部福祉課子育て支援係)は、二宮町山西240番5ほか3筆(国立小児病院二宮分院跡地)に、育児に関する情報提供、育児相談などの各種サービスの提供、子どもの遊戯施設整備、異年齢交流の促進などを目的とした「(仮称)子どもの館」全体基本構想を立案している。

2008年4月15日 (火)

軍人援護会山形支部蔵王高湯養護林間学校(蔵王学園)

軍人援護会山形支部蔵王高湯養護林間学校(蔵王学園)
1)概要
 恩賜財団軍人援護会山形支部が、軍人遺族、軍人家族又は傷痍軍人家族のうちで虚弱と認められた児童を収容するために、1942年6月13日に開設された。建物は教室、寝室、講堂兼食堂、浴室を持つ222坪、職員は教諭3名、養護訓導1名、炊事婦1名が勤務した。定員120名、4月から11月までを9期に分け、20日ずつ虚弱児童を収容した(A)。後に県立蔵王学園となる。1976年蔵王学園廃園の動きに対し、2~3月に山形県職労が廃園反対のストを行う。1979年5月29日、1980年限りで学園閉園が決定する。
2)先行研究
杉浦守邦「山形県特殊教育史」(1978)、p356/荷見(1949)から引用紹介
3)文献・資料
A杉浦守邦 「山形県特殊教育史」1978、 山形県特殊教育史研究会/上記概要
荷見秋次郎ほか「虚弱児童の健康指導」1949、牧書店、p215~229 /杉浦研究が引用/筑波大学図書館蔵 体芸 372.107-G-298 10003610562
杉田裕、大井精吉編「東京・精神薄弱教育年表-昭和戦前編-」1974、精神薄弱教育資料研究会、p64/長谷川千恵美蔵
厚生省社会局・児童家庭局監修、 福祉新聞社編「全国社会福祉名鑑」1965 、福祉新聞社/杉田年表が引用
山形県蔵王学園編「蔵王学園の現状と保母の記録 昭和46年度」1972、山形県立蔵王学園/山形県立図書館蔵、資料コード104536152、請求番号K369.27/ヤマ
4)研究課題
 杉浦研究、杉田研究が引用した文献を筑波大等から貸し出しを受けて当たってみる。
 戦後の蔵王学園の資料が山形県にあると考えられるので、実地調査を行う。
 軍人援護会の運営から県立移管により、継承されたもの、変わったことなどを考察する。 山形市蔵王温泉28「昭栄館」の温泉は「蔵王学園源泉」を使っているとのこと。蔵王学園において温泉利用による虚弱児の療育の意図があったのではないかと推察される。
軍人援護会について。

2008年4月13日 (日)

滋賀県軍人援護会三津浜学園

滋賀県軍人援護会三津浜学園
1)概要
滋賀県軍人援護会が大津市の唐崎神社前一本松のそばに1943年4月に設立し、戦死者の遺児でからだの虚弱な子ども等を収容して教育した。建物はオランダ人宣教師の住宅を接収したものであった。対象児は小学校4・5年の男子ばかり25名で、滋賀県下から募集した。6年生になると、それぞれ元の学校に戻った。知的障害児の入所もあったという(E)。園長1名(医師藤堂参伍、滋賀県学務課・社会教育課兼務。厚生課ともいう)、主任1名、保母1名、保健婦1名、炊事婦1名。滋賀県近藤県知事の秘書課長であった糸賀一男が、京都で小学校臨時教員(第二衣笠尋常小学校)の時に知り合った池田太郎を主任推薦し、滋賀県立師範学校の代用附属小学校の教員として採用し、その身分のまま三津浜学園の主任となった(F)。1946年3月廃止。閉園後に糸賀は新しい学園を構想し、池田、田村一二と共に1946年10月に近江学園(石山南郷)を開設する。
2)先行研究
病弱教育史研究委員会「日本病弱教育史」1990、日本病弱教育史研究会、内「25滋賀県」/池田「めぐりあい・ひびきあい・はえあいの教育」を元に紹介
3)文献・資料
E池田太郎「めぐりあい・ひびきあい・はえあいの教育」1979,北大路書房p211~228
F糸賀一男「糸賀一男著作集Ⅰ」1982、日本放送協会、p23~27
藤堂参伍追悼録刊行委員会「藤堂参伍追悼録」1968、中央公論事業出版
4)研究課題
 大津市の教育史、福祉・保健史内に三津浜学園について記述がないか調査する。
 現地調査、オランダ人宣教師宅を利用したとの糸賀の記載より、滋賀県のキリスト教史、建築史なども調査する。
 池田、糸賀の著作の中に三津浜学園に関する記述がないか当たってみる。
近江学園開設の源流としての三津浜学園の位置づけの可能性検討。
軍人援護会について。

2008年4月 6日 (日)

太陽の仲間たち-身体障害者とある医師の挑戦-、三枝義浩

太陽の仲間たち-身体障害者とある医師の挑戦-、三枝義浩、講談社、1994年。大分に障害者が働く工場=太陽の家を設立した医師、中村裕(1927~1984)を描いた漫画である。整形外科医として脊髄損傷者の手術・治療を行い、イギリス留学で障害者のスポーツと社会復帰の現状を見て、帰国後に東京でパラリンピックの成功、障害者雇用の実現を果たした。日本の障害者スポーツの歴史、障害者雇用の歴史において中村裕医師の存在が大きな出発点になっている。医師として治療するだけではなく、患者が仕事を持ち、収入を得て、社会生活ができるまでするまで援助した中村裕氏のことを知ることができる漫画となっている。

作者が参考にした文献は

・太陽の仲間たちよ、中村裕、講談社

・中村裕伝、中村裕伝刊行委員会編

・すすめ、太陽をあびて、きりぶち輝、PHP出版

解説を書いた社会福祉法人太陽の家理事長、畑田和男が引用した文献は

・整形・労災外科、第24巻3号、中村の大分県身体障害者体育協会設立の経緯の中村の述懐

・四国太陽新聞第8号、身体障害者のオリンピックに関するコメント

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