学童養護協会沿革
1936年 4月 東京市麹町臨海学園(鎌倉材木座)で有志の発起による養護学校代表
者の会合が行われる。出席者は各校長、東京市内の養護学級担任訓導、東京市の体育課長ら。体験座談会、懇談を行い、「養護事業の発達と促進つる為に協同の機関を設ける事が急務であると意見一致し」て「学童養護協会」を創立する。理事長秋場隆一、理事飯田吉太郎他10名。協会の資金後援者丸見屋商店主三輪善米。
* * 「養護に関する研究の発表機関として」雑誌「子供の生活」を発行する。(同誌は前年から発行されており、協会発足以前からの雑誌であった可能性がある)
1937年 1月 「子供の生活」を「健康教育」と改題。発行部数1万5千に増加する。
同月 健康増進の歌を募集。「謳へ日本」「太陽の子」が当選しビクター児童レコードで発売(7月)する。作曲中山晋平、編曲深海善次。
3月 6日、養護学校中心の活動から養護学級との連携を作るため、各養護学級担任訓導を中心とする第1回「研究座談会」を開催する。
4月 11-12日、熱海外気学校において学童養護協会理事会を開催する。協議事項は、文部当局への補助充実陳情等7件であった。
同月 理事長秋場隆一、欧州の虚弱児童養護状況視察に出かける。7月23日帰朝。
7月 東京誌麹町臨海学園を背景として映画「進め!!健康へ」(35ミリ及び15ミリ)を作製。各小学校の保護者会、母の会、教育会に出張映写し、全国で広く利用された。
8月 「健康教育ニュース」と題し東京府立久留米学園、江戸川小学校、麹町小学校臨海団等の夏季の児童生活を16ミリ映画にする。
同月 名古屋市で学童養護協会主催、名古屋新聞社後援で「学童養護座談会」を開催する。この会がきっかけとなり、同年11月5日「中部日本こども養護協会」が発会する。
10月 2日、第2回「研究座談会」を開催する。
11月 11日、東京軍人会館で学童養護協会の集いとしてお話と映画の会を催す。参加者1500名。
12月 養護学級の児童、保護者、担任者との「養護学級連合大会」を開催する。東京市の養護学級が殆ど参加した。
1938年 1月 「健康教育」誌発行の最終号となる。
* 学童養護協会内部に「或す障碍」が生じ「健康教育」誌発行不能になる。秋場理事長紛争を避けて辞任する。
6月 5日、教育会館に理事会を招集、協議の結果、学童養護協会は解散し「大日本学童健康協会」を設立する。会長藤井利誉(元東京女高師教授、元東京市教育局長)、副会長安東寿郎(元東京高師教授、文部省嘱託)、飯田吉太郎(元六甲郊外学園長)。
11月 廃刊となった「健康教育」誌を「養護教育」と改題し発行開始する。
1939年 5月 27日、大日本学童健康協会定期総会を開催する。
6月 15日、小理事会を開催し、協会規定に依る講演会開催の件を協議する。
7月 「養護教育」誌の発行部数が2万部となる。
同月 8日、学童健康後援会を開催する。講演、厚生省予防局長高野六郎、文部省体育課長岩原拓、警視庁予防課長井口乗海。
1940年 2月 大日本学童健康協会の地方委員に、河合研究所内「大日本保険教育協会」の地方幹事を推薦し、養護思想の普及を図る。
5月 「養護教育」誌の編集人が高塚賢三に変わる。同時に誌に副題として「学童健康の相談雑誌」と書き添えられる。
6月 5日、第3会養護学級研究座談会を開催する。
7月 11日、花岡学院において、母と教師の座談会を開催する。
秋 藤井利誉会長辞任する。
9月 事務所を@@からミツワ石鹸ビル内に移転する。
1941年 5月 「健康教育」誌廃刊。「国策に協力するため雑誌養護教育を本号限り廃刊することになりました」「尚、本協会の事業は、雑誌廃刊に関わりなく継続」すると記載あり。


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