花岡学院は、東京市神田区栄町で花岡病院を営む花岡和雄医師が、1926年に設立した「虚弱な児童のために特に保養と教育の両つながらを兼ねた」(花岡、1925)私立小学校である。場所は現在の東京都練馬区旭町2丁目(都立光が丘公園の北西端の一部)、東武東上線成増駅の南東約900mの位置である。地元の妙安寺から借地した武蔵野の田園で、泉や樹木など自然環境に恵まれた場所であった。敷地は5880坪で、校舎、日光浴場、雨天体操場、寄宿舎、グランド(後にプール)を備えていた。開校時の定員は30名で6学年3学級、「設立認可願」によると教師6名、保母(=寮母)の他医務嘱託、看護婦を置き、学校内で「特別診療」を行うことが構想されていた。増築して定員が60名まで増員されたが、実際の在学者数は1940年が13名、1942年が7名と少人数で運営された。学校長は花岡和雄、校医は和雄の五男信男(1935年から)、教師は1940年頃からは次男忠男一人となり、花岡の家族による小規模な運営となった。
小学校の運営の他、校舎・敷地を活用して、「日曜校外学校」(一日林間学校)、私立東京女子商業学校の「夏季集聚」(勤労集団生活)、東洋英和女学校小学部の耕作なども実施された。また、神田区内の芳林小、錬成小などの「夏季施設」(児童をT型フォードで輸送)を実施した。
第二次世界大戦下、食料不足や学童疎開の影響により、1943年3月花岡学院の全財産が神田区に寄贈され、神田区立武蔵健児学園に転用された。花岡学院の18年間の運営期間に、同学院で学んだ者の数は、短期の者を含めると「900余人」(練馬区教育史編纂委員会、1975)に達するという。
常盤山林間学校は東京桐ヶ谷の小児科医篭山譓(カゴヤマアキラ)氏によって1934年、鎌倉市外深沢村、鎌倉大仏の北西に位置する峰山中腹に設立された。そこには源義朝の側室常盤御前が硯の水を取ったと言われる泉があり、一帯は常盤山と呼ばれる地域である。虚弱児が結核になることを防ぐことを目的に、教室や寄宿舎(計92坪)の設備を整えたが私立小学校としての開校は実現せず、夏季コロニーの実施、結核予後の学生の療養、虚弱児の寄宿(学齢期の子どもは深沢小に通学)等を行った。学校より一段下、山の麓に診療施設、入校者が使う広間(食堂)、風呂場等が一体となった篭山一家の住居があった。篭山一家の働きに支えられて6年間運営され、1940年に長女小夜子の結婚を契機として閉校した。
雨音薫16才。彼女はXP(色素性乾皮症)という難病のため太陽の光にあたることができない。深夜に駅前広場で歌うことが唯一の生きがいの薫は、日の出前にサーフボードを抱えて現れる少年、藤代孝治に窓越しの恋をしていた。運命は2人を引き寄せるが、薫に残された時間は残りわずか。そんな薫のために、孝治はある約束をする…。
/高校生のせつない恋の物語。障害を16歳少女=薫はどう受け止めたか、最後のシーン、「生きる」と。障害をめぐって、薫と両親の葛藤の場面は車の中。薫を大切に思う孝治は薫に神経症状の障害が生じたことを知る場面で泣いた。薫の友達、両親、歌とギター、恋人、生きる目的。薫の死までを描く。
長州ファイブ 五十嵐匠監督 日本 2006年
攘夷の嵐が吹き荒れる幕末期に幕府の禁を破ってイギリスへ命がけの密航を果たし、後に近代日本の幕開けに大きな足跡を残した長州藩の5人の若者、「長州ファイブ」と呼ばれる、伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三の激動の運命を描く歴史ドラマ。
/後半は山尾が主人公となり、手話を使い、紡績工場で働く聴覚障害者エミリーとの恋を描く。山尾は帰国後「盲唖学校ヲ創立セラレンコトヲ乞ウ」と題する建白書を書く。1915年、日本盲唖協会初代総裁に就任する。障害児教育史の知識として、山尾がイギリスの造船所で働く聴覚障害者が手話を使い、図面を引いたり大工・鍛冶の仕事をしてるのを見て、それが教育によるところが大きい、との見識を持っていた。この造船所を映画では紡績工場の女性に置き換えて描いたものと思われる。白亜の海岸をバックに、山尾とエミリーが手話で会話する場面が美しい。日本の聴覚障害者教育の一つの源流が、映画で再現されている。
九州大学の遠城寺宗徳教授
九大医学部小児科関係の文献
○還るを知る 遠城寺宗徳、九大小児科同門会、昭51
○こどものからだと教育 (家庭教育シリーズ第1集)遠城寺宗徳、大日本女子社会教育会、昭和43年
○ 日本小児医事年鑑 昭和24年度栗山重信・鎮目専之助・詫摩武人、日本小児医事出版部、昭和24年 *これに遠城寺は「小児科随想」と題して、小児科教室の構想として附属施設として、乳児院、託児所・幼稚園、小学校、精神低格児施設(補助学校)の4機関をあげ「当分は実際に付設することは困難であろうから他の施設と特約協力する」と記している。この構想を数年後には内部努力で実際に開始したことになる
○ つくしんぼ(1~26)九大医小児科学教室二十六冊 1 父母と医師の会 N研届き 不 昭32~37 *ガリ版印刷の治療教育部の機関誌
○強い子弱い子―育児の医学と教育 遠城寺宗徳、慶應通信、昭和41年
○九州大学医学部小児科教室業績目録 昭和59年~平成8年 *遠城寺とは時代が異なるが、教育のことを論じた論文がないか、と思って買ってみたが「養護教諭」関連1本あるだけであった
□一生一竿 遠城寺宗徳追想集 1979年
西日本新聞の記者による遠城寺氏からの聞き書きがあり、それに治療教育部やその他、教育関連の項あり。ただし「聞き書き」なので、どのように評価して扱っていいのか、検証が必要。教授時代が時代順に書いてあるので分かりやすけれど。
○「京都市児童福祉百年史」の年表、宇佐玄雄医師が「低能児その他性格異常児の教育治療を行う」という記述から、三聖病院と宇佐玄雄医師について調べ始める。
○玄雄医師は子どもを対象とした特別な取組みを行ってはいなかったが、子どもの入院、子どもの治療を行っていた。年表の「吃音矯正並びに低能児その他性格異常児の教育治療を行う」が何からの引用であるか今後調査を進めたい。
○「神経質の矯正法 神経質児童の保育陶冶法」宇佐玄雄
出版は昭和30年で、玄雄医師が亡くなる2年前。晩年に出版された本が子どもを対象とした物であり、ご自身が子どもに対して大きな関心を持っておられ、実際に子どもを治療されたいたことが分る。玄雄医師は、大正8年に東京帝国大学精神医学教室の呉秀三教授のもとで研究している。ちょうどその年の10月、同教室の臨床の場であった巣鴨脳病院が松沢に移転し松沢病院となる。巣鴨脳病院時代、明治42年に病院内に「修養学院」という教育機関を設けており、松沢移転後も大正12年の関東大震災までは存続した、とされている。玄雄医師は「修養学院」を実際に見ていた、と思われる。「低能児その他性格異常児の教育治療」という文言から、玄雄医師がご自分の病院設立にあたり、巣鴨や松沢病院の「修養学院」のことを思い出していたのではないか、と予想する。
宇佐玄雄著作
○「癖の直し方」
○「説得療法」
○「神経質の矯正法神経質児童の保育陶冶法」
○「あるがままの世界」
○宇佐玄雄医師は、昭和17年に橋田邦彦文部大臣と面会してる。
宮腰千葉太編「その面影」宮腰千葉太発行、1926年
*宮腰信次郎自叙伝、遺稿集、追悼文集
仙台の古書店から購入。山梨英和学院大学、三康図書館にあることが分かっていた本。宮腰信次郎氏のお孫様から貸していただいたことがある。宮腰氏は日本で最初の養護学校=白十字会林間学校を開設し、後に校長となった人。日本のメゾジスト教会を組織上アメリカの母教会から独立に導いた人。明治後期から大正初期の炭坑・鉄道会社の運営にあたった法律家、元検事。宮腰伝を書きたいと思う。コピーではなく、本物を持つことで、宮腰伝につなげたい。
和田正系「草堂茶話」医道の日本社、1978年
和田氏は日赤千葉支部富浦海浜学校の校医、後校長。千葉医学専門学校卒、東洋医学、漢方に詳しい。その和田氏のエッセイ集。パラパラとめくって、タイトルと内容を見る。富浦海浜学校のことには触れていないらしい。しかし、ご本人の挿絵が多数入っていて、和田氏のことが伝わってくる本となっている。
小児疾患と文学 角田昭夫 日本医事新報社 1989
やさしさと出会う本 「障害」をテーマとする絵本・児童文学のガイドブック 菊地澄子他 ぶどう社 1990
自分探しの旅 児童文学を読む 読書研究会 かもがわ出版 1993
障害者の文学 中島虎彦 明石書店 1997
マンガの中の障害者たち 表現と人権 永井哲 解放出版社 1998
近代文学と障害者 別冊しののめ しののめ発行所編集 1999
日本文学のなかの障害者像 近・現代篇 明石書店 2002年 花田春兆編
クララは歩かなくてはいけないの? 少女小説にみる死と障害と治癒 ロイス・キース 明石書店 2003
謎解き少年少女世界の名作 長山靖彦 新潮社 2003
大江健三郎の作品と都立青鳥養護学校の教育 大南英明 ジアース教育新社 2004
児童文学のなかの障害者 長谷川潮 ぶどう社 2005
本は友だち 障害をもつ子どもと本との出会いのために トーディス・ウーリーアセーター 1989 偕成社
道 フェデリコ・フェリ-ニ監督 1954年 イタリア 五四年ヴェニス国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞
貧しい上に少々足りない娘ジェルソミーナは、オートバイで旅まわりをする曲芸師ザンパノーの助手となって旅に出た。本作は最も感動的なフェリーニ作品として知られ、アカデミー外国語映画賞受賞作。
/ジェルソミーナは浜辺で薪拾いをする長姉、母から頭が弱いと言われ口減らしとしてとして旅芸人となる。映画では知的障害を思わせる表現は見受けられず、本人の「料理ができない」と、母・サンパノの「おまえの頭では」といった言葉ぐらい。ジェルソミーナが自分の能力のなさに自信を失っている場面で、「誰にでも世の中に存在する意味がある」と励まされる。そこに障害と生きる姿があった。1回見た感想は、男と女の心の行き違いの映画、純心で少々足りない「女」を設定することで、男は愛に気づくといったところか。気になる場面は、結婚式の盛大な宴会をしている家の奥の暗い部屋のベッドに寝ている少年が出てくる所。その少年の従兄弟たちが、ジェルソミーナの芸を見せて笑わせてあげようとする。小児結核で寝ている少年と、心配し、楽しい経験をさせてやろうとする従兄弟たちの思い。少年の世話をする大人は、近寄ることを大声でしかる。
障害児と兄弟・姉妹を考える映画
「いちばんきれいな水」ウスイヒロシ監督 日本 2006年
小学6年生の夏美には、むずかしい病気で11年間眠ったままの姉・愛がいる。/夏美が1歳の時に姉愛が手術(病名は出てこない)し、その後眠り続ける。夏美はベッドの姉に優しく語りかけ、勉強していい子に育っている。両親が不在時、愛が起きあがって夏美と過ごす中で、愛が楽しい時間の過ごし方を教え、夏美に自分の障害の経緯を知らせる手紙を書く。愛が起きあがったことは、本当なのか、夢の中なのか分からないが、夏美はこの経験によって愛を姉として受け入れて、また姉の障害を受け入れて、勉強以外にも積極的になっていく。愛に対して「こんな人知りません」が、「私には姉がいるの」に変わる。姉の障害や、両親の苦しみを知らないいい子の夏美は姉の障害を受け止めきれず、姉の障害を知り、両親の心の内を知ることで障害の姉を受け入れることができた。また夏美自身も子どもから大人へと成長する。 一番きれいな水とは、愛が手術前に、赤ん坊の夏美を水に沈めて自分の手術が成功するように生け贄にしようとした水のこと。
○白十字会林間学校
結核予防団体白十字会が1917(大正6)年に神奈川県茅ヶ崎町小和田浜に開設した、体質虚弱又は腺病質の児童を対象とする寄宿制小学校。小学校令第36条第1項但書による「家庭修学」の認可を得たキリスト教に基づく私立小学校で、卒業証書の裏面に「茅ヶ崎町長ヨリ尋常小学校ノ卒業証明書ヲ受クルモノトス」書かれ、小学校卒業が認められた。日本における最初の養護学校である。養護学校が法律上に規定されるのは1941年「国民学校令施行規則第五十三条ノ規定ニ依ル学校ノ編制ニ関スル規定」である。この規定に該当する学校は、規定当時多数あったが、その中で最も古い学校は1909(明治42)年開設の「東京市養育院安房分院」である。しかし同院が小学校としての認可を受けるのが1936(昭和11)年である。法令に基づいた義務教育を履修する学校としては白十字会林間学校の方が古いことになる。このことにより、白十字会林間学校が日本における最初の養護学校となる。
開設・運営の中心となったのは元長崎控訴院検事宮腰信次郎、初代校長に江原素六を招聘した。宮腰による「目論見書」内「本校の目的」には「健康の児童と一緒に普通の学校へ通学せしめて置く時は、肺結核になる虞れある体質虚弱又は腺病質の児童を分離し、教育の傍ら、その身体の健康を恢復し、根本的に結核の伝染を予防するにあり」とある。相模湾に近い松林内に、寄宿舎・校舎・屋外教場・静養舎を配置し、授業は午前中3時間とし、持ち運びができる机・椅子により屋外で学習する時間を設定していた。寮舎は児童の居室が2部屋、そこに1名の寮母を置き、十名前後の児童が生活した。白十字会の会員医師が学校医となり、静養舎に看護婦を常駐させ、嘱託医に地元の医師を充てた。栄養研究所佐伯矩を顧問とし、栄養士を置いた。教育と医療と生活により、健康の快復と結核予防をめざした。開校時は児童数8名、1923年の関東大震災により校舎・寮舎等が倒壊するが復興し、寮舎を増設して1940年には120名を超える児童が在籍した。
1947年に児童福祉法・学校教育法が施行されて白十字会林間学校の医療・生活部門と教育部門を分けて運営する必要性が生じた。1949年に白十字会林間学校の医療・生活部門が虚弱児施設として認可され、教育部門は分離して平和学園小学校となった。白十字会林間学校は現在児童養護施設として同じ場所で同じ名前で存続し、その南隣に平和学園小学校が運営されている。
<先行研究>
・茅ヶ崎の小さな学校-旧白十字会林間学校の三二年-、桐山直人、草土文化、1999年。
<資料>
・その面影、宮腰千葉太、研究社、1926年。
・太陽学校、村島帰之、鳴弦社、1943年。
・白十字会80年史、社会福祉法人白十字会、1990年。
・平和学園50年の歩み、学校法人平和学園、1997年。
○理論實際學校の夏季聚落.
木村泉,高橋與惣共著. 大同館書店, 1927
筑波体、横浜市中央(古川静夫寄贈)
木村:大正8年、東京市衛生技師。大正15年、栃木県学校衛生技師。
高橋:大正8年、新設東京市小梅小学校校長。
大正7年に東京府は夏季聚落に関して訓令
東京府訓令第二十一号(大正七年七月二十五日)
東京市御殿場児童高山聚落、天幕屋舎・消毒用自動車(仏国寄贈)
白十字会林間学校の写真あり
日赤他、小学校独自の夏季聚落の実施があったことを知ることができる
○学校歯科保健史話、榊原悠紀田郎
○子どもの結核、青木正和、森亨
○東京市養育院安房分院
東京市は、1909(明治42)年5月16日、千葉県安房郡船形待町に海浜保養所「東京市養育院安房分院」を設置した。巣鴨分院の児童の中で、虚弱児を転入させて健康快復を待った巣鴨分院に帰還させることを目的とした。この分院設置には、前史がある。東京府知事大久保一は、明治5年に市内に徘徊する「浮浪乞食」の徒二百余名を本郷元加州藩邸跡に収容したことをきっかけに、翌明治6年に常設の救護所を上野護国寺内に設置し、東京府養育院と称し、営繕所がこれを管理した。明治23年、前年の市制施行により東京市が引き継ぎ、東京市養育院と改称した。この時、入所者の3分の1以上が児童で占められていた。児童の教育は早くから課題となり、明治8年には教育が行われていた。明治33年7月、同院医長入沢達吉は、収容児童の死亡者の100分の57が肺結核であるので、衛生上害毒を除去するために海浜保養所の新設を院長渋沢栄一に建議した。同年8月千葉県安房郡勝山町の篤志家広田松次郎所有の民家を借りて「勝山保養所」を設置して、試験的に収容児童の臨海保育を行い、教師岡仁三郎による林間授業などの施設内教育が好成績を収めた。その後明治38年、勝山保養所の成績が良好であったため、東京市が安房分院の設置を決議し、分院として恒久化することになった。これにより1909(明治42)年「東京市養育院安房分院」を設置に至った。
1936(昭和11)年、安房分院は、小学校令第36条第1項但書により「家庭修学」の認可を得た。これにより、安房分院で行われた教育を履修すると、船形町町長が尋常小学校の教科の卒業証明を出すことができるようになった。安房分院が義務教育を行う学校となったのである。1941(昭和16)年4月に国民学校令が施行されて「家庭修学」が認められなくなり、同年9月に館山市との間に覚書を取り交わし、安房分院内の教室を船形国民学校分教室(養護学級)とした。その後制度改革により、名称と機能が変化する。
1942年3月東京市訓令甲14号により「安房臨海学園」、1943年7月東京都施行により「東京都安房臨海学園」、1945年塩原に疎開し、一時東京都は運営を中止する。1946年運営を再開、1948年2月養育院から東京都民生局児童課に移管。1949年児童福祉法に基づく療育施設(←ここ要確認)となる。1955年東京都安房児童学園と改称、1978年に東京都船形学園と改称した。
現在は児童福祉法第41条に基づく児童養護施設、社会福祉法人東京都社会福祉事業団による「東京都船形学園」となっている。保護者のない児童・虐待されている児童・その他環境上、養護を要する児童を入所させて養護し、あわせてその自立を支援することを目的としている。
<先行研究>
・東京市養育院安房分院、病弱教育覚え書第6集、織田真一、1986年。
<資料>
・我が養護施設を語る、東京市養育院安房分院、「健康教育」第3巻2号、1937年2月。・船形学園75年の歩み、1985年。*未見
映画に表現された障害者像
ハイジ 監督:ポール・マーカス 2005年 イギリス
○アルプスの自然の中で、足の不自由なクララが生きる勇気を与えられる。つつましく暮らすペーターの祖母は盲目。
○クララが歩くようになる経緯で、アルプスの自然の中での生活がどのように関与しているか見ようと思った。シュピリによる原作が1880年、ヨーロッパの田園教育思潮の広がりより前になるか。映画では、谷に落ちる車いすを追って走るハイジの行方を心配したクララが、ハイジの姿を見ようと思わず立ち上がった、という描き方であった。アルプスでの生活で身体が丈夫になる、という描き方ではなかった。アルプスの自然が美しい、ハイジが可愛い。
| ローズマリー・サトクリフ | 思い出の青い丘 | K | サトクリフ自伝 | 1985 | 岩波書店 | スティル氏病 | 本人 | 2歳で発病、歩けなくなる。作家として出発するまでを、障害を持つ少女の立場から描く。 |
サトクリフは1920年12月14日、イギリス、サリー州で生まれる。3歳頃に若年性関節炎になり、進行・軽快を繰り返しながら症状が進行した。
40ページに次のような記載がある。
------
車椅子に乗って午後の散歩につれていってもらえないとき―その頃私はまったく歩けませ
んでした―私は大部分の時間を庭のなかか、家の前のクルミの木の下に椅子を置いて過ごし
ました。それはできるだけ戸外にいるのがよいと考えられていたせいでした。どれほど寒かろ
うと、雨に降られようと、そうやって戸外に出ているということば、ほとんどどんな病気にも
効き目があるのだと当時は考えられていたものです。
------
39ページには5歳とある。1925年、日本では明治から大正に元号が変わる頃。欧米の林間学校や露天学校情報が移入され、各地でその試みが行われ始めている時代である。戸外の健康への影響は、このように捉えられていた、という貴重な記録である。
この他、障害の子どもがどのように自分の障害を認識しているか、それがどのように変化していくか、が書かれている。
最近のコメント