ブログ:ココログ

2008年10月14日 (火)

工藤美代子、それにつけても今朝の骨肉、筑摩書房、2006年

  工藤は1950年生まれ、兄の茂雄は1946年生まれ。兄は1949年に日本脳炎を患い、半身麻痺、知的障害、視覚障害となった。この本は、障害の兄をめぐる家族の物語ではなく、そんな離婚した父と、その父との軋轢を持ちながら支え合う家族の物語である。障害の兄について、多く語られていない。日本脳炎という病気は、昭和40年前後に子ども時代を過ごした自分にとって、聞き覚えのある言葉(病気)である。詳しくは知らなかったが、「脳」という言葉に恐い病気と思った記憶がある。施設入所、帰宅して家で世話をする家族、家を離れた父が送ってくる雑誌を破って気持ちを紛らわす障害の兄。父は、障害のある男児に代わり男児で生まれてくることを期待していて、美代子が生まれた。そこに父と美代子の軋轢の発端があった。この本にあって、障害の兄は部分にすぎないが、中心でないだけに、兄が登場する場面における障害の記述が私には重く伝わってくる。美代子が小学校時代、「私は子供ながら疲れはてた」p26。障害の兄の存在が、家族、そして妹美代子にのしかかっている。

2008年10月13日 (月)

鎌倉と結核

鎌倉と結核
 鎌倉という地域は、結核と深いつながりがあった土地であった。それはどうしてであったろうか。
 明治期日本の医学教育に大きな影響を与えた東京医学校(現東京大学医学部)の内科教師エルウィン・ベルツは、日記(「ベルツの日記」岩波文庫)に次のような記述をしている。

    明治一三年一一月八日-独りで江島へ行く。(中略)なだらかな丘の背を越す
   と-数分で七里浜の海岸に出るが、ここは自分にとっては、日本で一番美しい地
   点である。

 このベルツが鎌倉や湘南地方が結核の療養に適した土地であることを唱え、結核の療養所が数多く建っていった。また結核患者が家や部屋を鎌倉に借りて療養にやって来るということもあったという。明治一九年長与専斉による海浜院、明治三二年中村春次郎による恵風園、大正九年額田豊による額田保養院、昭和八年向山孝之による鎌倉山の林間病院、他多数の結核療養の病院があった。
 さらに、昭和一〇年代の鎌倉には、常盤山林間学校の他二つの虚弱児の学校があった。先に紹介した麹町臨海学園、そして昭和一三年に設立された私立鎌倉学荘である。鎌倉学荘は、内科医額田豊が鎌倉の北部山之内に設立した全寮制の小学校である。結核にかかったり、あるいは先天的にかかりやすい蒲柳の質といった虚弱児を医師と特に密接な連絡を保って学業指導を行い、健康者に成長させようと設立されたものであった。
  結核に有効な治療薬がない時代の結核治療は「大気、安静、栄養」と言われたという。その「大気」は空気がきれな所で静養するということであるが、その場所の自然環境と見た景色の美しさが大切で、それがいかにも身体によいというイメージを作り出す。
 ベルツが見た七里ヶ浜からの風景は、太陽に輝く大きな海とその向こうに緑色に大きく見える江ノ島がそびえ、また富士山と伊豆半島が見えて気分がよいものである。気候は東京に比べ暖かく、現在テレビニュースによって東京や横浜で雪が降る映像を見るその時、鎌倉や私が住む茅ヶ崎では雪がないことも多い。また、同じ鎌倉市内でも、海側と内陸部では冬の外気の体感温度に違いを感じるほど、海に近い地域は暖かい。
 風景がよく、温暖で、しかも東京から横須賀線で一時間と少々でやってこれる鎌倉は、東京周辺に生活する者にとって、結核の療養にも子供を預けるにもうってつけの場所であったのである。 

2008年10月12日 (日)

サイモン・バーチ マーク・スティーヴン・ジョンソン 監督, 1998

生まれつき体が小さく、いつ死ぬかわからない奇病を抱えて生きるサイモン(イアン・マイケル・スミス)と、彼の用心棒的存在でもある親友のジョー(ジョゼフ・マゼロ)。やがて、ある事件をきっかけにジョーは自分の実の父親を探し、サイモンはこの世に生を受けた自分の使命とは何かを考えるようになっていく。
  /映画の冒頭は教会のステンドグラス、キリストの像である。小人症(演じるイアンはモルキオ症のようだ)のサイモンは、自分が障害を持ってこの世に生を受けた意味を考えている。障害のある自分が生きている意味、寿命が短いと感じている自分が行う使命は何か、と。

2008年10月 7日 (火)

九州大学医学部小児科関係の文献

以下の○印=研究費

○還るを知る 遠城寺宗徳、九大小児科同門会、昭51

○こどものからだと教育 (家庭教育シリーズ第1集)遠城寺宗徳、大日本女子社会教育会、昭和43年

○ 日本小児医事年鑑 昭和24年度栗山重信・鎮目専之助・詫摩武人、日本小児医事出版部、昭和24年 *これに遠城寺は「小児科随想」と題して、小児科教室の構想として附属施設として、乳児院、託児所・幼稚園、小学校、精神低格児施設(補助学校)の4機関をあげ「当分は実際に付設することは困難であろうから他の施設と特約協力する」と記している。この構想を数年後には内部努力で実際に開始したことになる

○ つくしんぼ(1~26)九大医小児科学教室二十六冊 1 父母と医師の会 N研届き 不 昭32~37 *ガリ版印刷の治療教育部の機関誌です

○強い子弱い子―育児の医学と教育 遠城寺宗徳、慶應通信、昭和41年

○九州大学医学部小児科教室業績目録 昭和59年~平成8年 *遠城寺とは時代が異なるが、教育のことを論じた論文がないか、と思って買ってみたが「養護教諭」関連1本あるだけであった

□印=桐山購入ずみ

□一生一竿 遠城寺宗徳追想集 1979年西日本新聞の記者による遠城寺氏からの聞き書きがあり、それに治療教育部やその他、教育関連の項あり。ただし「聞き書き」なので、どのように評価して扱っていいのか、検証が必要。教授時代が時代順に書いてあるので分かりやすけれど。

2008年10月 5日 (日)

ハンセン病療養所内の教育

 「日本病弱教育史」にはハンセン病療養所内の教育に関して、以下の11の記載がある。

公立癩療養所大島青松園、香川県
 1919(T8)年に患者学校として大島学園を設置、1932(S7)年に未罹患児の楓学園を設置。
草津町湯之沢部落、群馬県
 1930(S5)年、英国の婦人宣教師コン・ウォール・リー、温泉湯治場の草津町湯之沢部落に聖望小学校。
北部保養院、青森県
 1931(S6)年、松岡学園
全生病院、東京都
 1931(S6)年、全生学園「小学校令ニ準拠之普通教育ヲ授クルヲ以テ本旨トシ、尚進ンデ中学教育ノ課程ヲ授ク」。
長島愛生園、岡山県
 1931(S6)年、長島愛生園の少年舎「平安寮」で、授業を行うようになった。S30年には、治療と勉学の特殊性を総括したハンセン病生徒のための唯一の高校として、岡山県立邑久高等学校定時制普通科新良田教室が開校。
九州療養所
 1931(S6)年、患者及び職員による檜小学校が発足、1936(S11)年に九療学園。1941(S16)年に恵楓学園と改称。
国立癩療養所栗生楽泉園、群馬県
 1933(S8)年、患者子弟未感染児を収容する栗生保育園。同敷地内に学齢児童のための草津小学校分教場が設置。1935(S10)年、所内に入院患児が通う室谷教室が生まれ、1941(S16)年望学園の設置につながる。
国立療養所星塚敬愛園、鹿児島県
 1935(S10)年、入園中の学齢児の教育のため、敬愛学園が開設。
国立宮古療養所、沖縄県
 1935(S10)年、私設教育所を開設、1937(S12)年に八重菱学園と命名。
沖縄県立国頭愛楽園、沖縄県
 1939(S14)年、入園児童のために愛楽学園を創設。
国立新生園、宮城県
 1949(S24)年、追町立新田小・中学校葉の木沢分校。

 1931(S6)年「癩予防ニ関スル件」改正によって、隔離の徹底化が行われる。それに合わせるように、1931(S6)年頃に療養所内に学校を作り、教育施設が整えられたように見ることができる。ここにも法律の整備と執行の歴史がある。隔離政策の中で、社会的な出口がない中においても、子どもがいて教育が行われた。実際の教育指導にあたる者がどのような教育を行ったか、そして学校教育を整備した国や病院長・療養所長は教育にどのような目的を持っていたか、といった検討が研究課題となる。
 また、草津町湯之沢部落の、英国の婦人宣教師コン・ウォール・リーによる私的な営みにおいてはどうであったか。他の私立療養所における教育活動の掘り起こし、そして公的・私的な療養所における教育の比較も研究課題となる。

2008年10月 4日 (土)

亀も空を飛ぶ バフマン・コバディ監督

 トルコ国境近くの村は、戦争しか知らない子供達、障害者であふれる。
  /最初に結末を描き、後半に謎を明かす。映画的な(作り物)の手法で描くが、見ていてこれはドキュメントではないか?自分がその難民の村にいるのではないか?と思わせる作りとなっている。子どもを描いた映画である。戦争を描いた映画である。戦争が人を不幸にする。戦争が子どもを不幸にする。
 兄14~15才に見える、地雷に触れたのか両腕がない。妹13~14才に見える、サダムの兵士に犯されて子どもを生む。その子どもは2才ぐらい、目が見えない。イラク軍が毒ガス攻撃をした町からやってきて、3人が生きる。1人を泉に沈め、1人は断崖から飛び降りる。象徴的なのは「ロープ」。ロープは目の見えない子どもを守り、子どもを殺す。とてもつない苦難、でもそれは、戦争のある所にはいつも、いくつもあることだろう。

2008年10月 3日 (金)

東京における障害種別ごとの教育の始まり

1920  東京市直営林町小学校促進学級、太平小学校補助学級(知的障害)
1926 八名小学校言語矯正学級  (吃音)
   東京聾唖学校難聴学級     (難聴)
   鶴巻小学校養護学級       (虚弱)
1931 #第4回世界教育会議 アメリカ、デンバー
    大島出席、日本開催が話題となる
1932 光明学校  (肢体不自由)
1933  #第5回世界教育会議  アイルランド、ダブリン
    東京誘致の方向を決めた会議、大島出席
   南山小学校視力保存学級  (弱視)
1934 礫川小学校難聴学級       (難聴)
   東京市は麹町区と協同で鎌倉に麹町臨海学園  (虚弱)
1935   #第6回世界教育会議 イギリス、オックスフォード  大島出席
   8月8日 次回東京で開催と正式に決定
   10月11日 帝国教育会内に日本事務局設置することが決定  
1936 1月8日 第七回世界教育会議日本事務局創設
   東京府立久留米学園  (病弱)
1937  #第7回世界教育会議 日本、東京

世界教育会議について

 「世界教育会議とは、現在その本部をアメリカ合衆国のワシントン市に置く世界聯合教育会が、その主要なる事業として主催する会議である。世界聯合教育会は、アメリカ合衆国の国民教育協会主唱の下に、一九二三年に創立されたもので、世界各国の代表的な教育会、教員会その他教育に関係ある団体を会員とする聯合である。」p1第1回世界教育に関係ある会議は、1929年スコットランドのエジンバラで7団体の参加で行われ、以来隔年に開催された。その目的は、「世界の教育及び教授の進歩発達を図り、教育事業に於て国際的協調をなし、各国家及び国民間における教育の進歩に関する状況を相互に明らかにし、世界各国の教育に関連ある団体間の協力を一層親密ならしむることに努め、国際親善を涵養すること」p2であった。
  第七回世界教育会議は1937年8月、東京帝国大学、東京女子師範学校を開場に開催された。

東京市と世界教育会議
  1937年1月15日東京市教育局内で「第7回世界教育会議準備委員会規定」が制定され、1月29日第一回準備委員会が開催された

帝国教育会長 永田秀次郎
帝国教育会専務理事 藤井利誉
第七回世界教育会議日本事務局事務総長 大島正徳

2008年10月 2日 (木)

「さくらんぼ 母ときた道」

「さくらんぼ 母ときた道」チャン・ジャーベイ監督 日・中80年代雲南省、足の不自由な葛望と、知的障害を持つ桜桃夫婦には子どもがなかった。捨てられた赤ん坊を拾い、愛情をそそぐが・・・。

2008年9月30日 (火)

松田道雄「明治大正 京都追憶」

松田道雄「明治大正 京都追憶」岩波書店、1995
p230
大正7年
・四年生の夏は赤十字社が天橋立で開いた保養所で二十五日間すごした。

以下2頁半に、その様子が記述されている。

«病弱教育とつながるのか、どうなのか、考えなくてはならない課題

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