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2009年7月 1日 (水)

NISE、S先生から紹介された本

筆談援助の会編、言えない気持ちを伝えたい 発達障がいのある人へのコミュニケーションを支援する筆談援助、エスコアール出版部、2008年
大越桂、きもちのこえ 19歳・ことば・私、毎日新聞社、2008年

後者の大越さんの筆談援助場面の映像を見せてもらいました。大越さんは、重度脳性麻痺で、発語はなく、強い緊張があって、全身の麻痺がある。語りかけに対して表情の変化が見られ、言葉に対して反応している様子がうかがえる。麻痺して緊張した手に、援助が手を添えている。大越さんの手の動きが、平仮名のどの文字を書いているか、援助者の手に伝わって分かるという。

以下はメモーーーーー
愛国の旗を掲げろ―海の覇者トマス・キッド〈4〉 (ハヤカワ文庫NV ...
(戦前)八瀬学園要旨 愛国婦人会京都支部. 絵葉書779 愛国婦人会茨城支部 銀 袋付き. 落札価格: 1000円 【大正12年刊】米国の東漸・石川実/著愛国社/アメリカ史. 落札価格: 6600円. 送料込天誅切り文字ステッカー白右翼民族派天皇愛国街宣車 ...
atpedia.jp/asin/4150410976/atpedia07-22

2009年6月28日 (日)

12分の待ち時間から歩くことにして

歩いたことで入手
三木卓、野いばらの衣・・・小児麻痺の写真家
重松清、きよしこ・・・・・・・・吃音の少年

津島佑子、寵児・・・・・・・・兄は先天性の知恵遅れ

沢木耕太郎、壇・・・・・・・・脳性麻痺の息子
桜井亜美、虹の女神・・・・盲の妹
河合隼雄、日本人とアイデンティティ・・・なぜ心は病むのか

2009年6月23日 (火)

長畑正道先生のご逝去を悼む

「特殊教育学研究」47巻1号が届いた。
追悼 長畑正道先生のご逝去を悼む の記事が驚きと悲しみをもたらした。
私と長畑先生との関わりは次の文献を読んだときから始まった。
1992年 長畑正道「わが国における心身小児医学のはじまり-別所彰善と精常園、生成学園尋常小学校、少年健康塾-」小児の精神と神経.30(1).
長畑先生は、少年時代に別所の精常園の夏季学校に参加しておられたのである。Y市の先生宅を2回訪問して、精常園のこと、別所のこと、精常園の機関誌のことなど教えていただいた。そして、別所に関する資料・文献を多数お貸しいただき、別所に関する小論をまとめることができた。
生成学園小学校と精常院別所彰善医師「育療」31号、2004年
また、長畑先生が一高時代に教えを受けた橋田邦彦氏について、少々の手紙のやりとりをさせていただいた。
小児精神医学の分野の開拓者である長畑先生は、病気(精神科領域)の子どもの医療と教育の歴史上重要な医師であり、教育者であられたと思います。
別所彰善と精常園、生成学園について資料収集が進み、生成学園に学んだ人と連絡がとれ、また元教師、孫の住所等が分かり、いずれ以前の小論をふくらませて、別所伝、あるいは精常園史をまとめたみたいと考えていた。そしてそれを長畑先生に見てもらいたいと思っていた。それは叶わぬことになったが、私は別所伝を書きたいと思う。それが私の長畑先生の追悼になると思う。

2009年5月10日 (日)

三島佑一、昭和の戦争と少年少女の日記

三島佑一、昭和の戦争と少年少女の日記、東方出版、1995
p5~34、六甲郊外学園の日記 昭和一三年
p35~70、集英国民学校の日記 昭和一六年
p38に集英寮=郊外寮の記載あり
・大阪市内が空気が悪く緑に恵まれないので、自然の中で児童の健康を図ろうとして、集英小学校が千里山に建てたものである。
・露天教室二六〇坪
p52
・毎日新聞社が浜寺に水練学校を開いて有名だった
p55
・集英寮、平成六年、吉兆の従業員寮としてそのまま
p107~156、仁川健民修練所と動員の日記 昭和一九年

黒岩重吾「深い傷」六甲郊外学園のこと、他

黒岩重吾全集第22巻、1984年、中央公論社、内
「小学生浪人」初出1974年
・僕は生まれながらに虚弱体質で、生後二年ぐらいから、二年近く、週に一度、母は僕をつれて回生病院に通ったらしい。
・五年生になった時、虚弱児ばから集めた、六甲の郊外学園に、一年間放り込まれた。この郊外学園は、大阪市が経営していて、六甲山の中腹にあり、学問よりも専ら、健康に重点を置いた教育を行っていた。

22巻の後書き「深い傷」
・私は大阪の小学校五年生の時、虚弱児童というりゆうで、大阪市が経営していた六甲の郊外学園に半年間行かされた。
・その六甲郊外学園は、今度の新住居の近くにあったのだ。

「暗い春の歌」初出1971年
・虚弱体質だった私は、小学校五年の時、私の身体を心配した両親によって、六甲の郊外学園に送られた。そこは虚弱体質の児童ばかりを集めた学園だった。

22巻には、結核の闘病、その他の療養者が登場する短編が多数ある
「北満病棟紀」
軍隊生活中、結核の診断により戦場を離れ、病舎に入る。
「病葉の踊り」
病院で首つり自殺をした男のノートに記されたいたこと。満州第八三七部隊、肺炎で陸軍病院に入る。看護婦の浜谷と関係を持つ。8月10日、ソ連が侵入。復学、商売。大人には珍しい小児麻痺。ベットの上で、丸太ん棒になって丸一年間過ごした。看護婦の岡部、椎香。
「深夜の逃走」
佐々木は精髄癆、腰部の運動神経をスピロヘータにおかされている。
浦上はベンゾール中毒で、両手両足が不自由。
三浦栄は二三才の女教師、分裂病患者。
「春の池」
鈴木恭吉は胸をやられ、二年間病院で療養したが、自宅に戻ってきた。
「ガラスの棺」
矢城が全身麻痺で入院して足掛け三年め。身体が不自由な長期療養患者が集まっている病棟。

黒岩は、結核や運動神経麻痺による療養者をたびたび描いている。

結核療養所内の、患者と看護婦の恋愛・セクシャルな関係が、大江健三郎の「他人の足」、太宰治の「パンドラの匣」に描かれていることを以前に書いたが、黒岩の短編にもたびたび出てくる。

2009年5月 6日 (水)

黒岩重吾「小学生浪人」六甲の郊外学園

黒岩重吾「小学生浪人」初出:「小説現代」 1974.6 6号
あらすじ
作者の自伝的作品。小学生の浪人という特殊な経験の中での鬱屈した思いや初めての映画、性の芽生えなど
作品より引用
五年生になった時、虚弱児童ばかり集めた、六甲の郊外学園に、一年間放り込まれた
黒岩重吾、大正13年/1924年2月25日~平成15年/2003年3月7日

2009年5月 4日 (月)

宮腰信次郎長男、宮腰千葉太に関する記述

白十字会林間学校設立者、宮腰信次郎の伝記を書くための資料収集の過程で、その長男宮腰千葉太に関する情報が集まってきた。
5月3日朝日新聞書評欄、「著者に会いたい」
・村上紀史郎、「バロン・サツマ」と呼ばれた男 薩摩治郎八とその時代、藤原書店
1929年パリ、日本館(留学生会館)建設との記述。
確認したところ、4カ所に宮腰千葉太の記載があった。
他に宮腰千葉太のついて記述がある本は
・前山隆、ドナ・マルガリータ・渡辺 移民・老人福祉の五十三年、御茶の水書房、1996
・長尾みのる、地球のうらで孤独になろう 風まかせ人間・旅すれば、番町書房、1973
・長尾みのる、自魂他才でグッドモーニング珈琲、冬樹社、1981

2009年4月29日 (水)

大正期、結核の小学生、家族の行動と心理

小林恒子「一枚の写真 きのふの空第Ⅰ部」東京布井出版株式会社、2001年
著者は明治42(1909)年7月生まれ。
大正7(1918)年2月20日から同8年3月31日まで休学した。病名は乾性肋膜炎。p121~147「休学」の章がある。
<症状>
・坂を途中で休まなければ上がれなくなった
・家に帰るとへとへと
・お尻の穴が見えるほど痩せた
・定期的に種々の体力検査を受けさせられた
・肺活量は最低
・走ると脳貧血で気分が悪くなるか失神
・肋間神経痛
・寝間着や布団の皺が刃物のように感じて痛い
・頬が火照る
<治療>
・盗汗の薬として生牡蠣の絞り汁
・清酒を入れた胸部の温湿布
・部屋に終日湯気を立てる
・散薬
・水薬の鉄剤
・祈祷師「倉田のお爺さん」呪文、私の周りを回って拝んだ
・アルコールを入れた熱い湯で全身を拭く
・天理王神の祈りを捧げて、祈りの言葉を唱えながら全身を両手で撫でさするようにして拝む
<転地>
・信州は母が反対、空気は申し分ないが、医者、衛生、滋養物などの点が不十分
・大井鮫州の摺鉢公園の上のお鯉さんの別荘へ

2009年4月26日 (日)

医療的ケアとともに

河北新聞、2009年2月8日(日)から連載4回
医療的ケアとともに、重症心身障害者の今
仙台市の一人の重症者と家族の姿を通じて考える

2009年4月23日 (木)

友川泰彦「美酒のめざめ」

友川泰彦「美酒のめざめ」1958,筑摩書房
この作品は、私が十一歳の時、寮生活を送った六甲郊外学園と、私が育った大阪道修町とを、舞台にして書いた「幼少物語」である。(あとがきより)

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